サブカル備忘録

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態度の悪い客がいたMOROHAのライブの日のこと

7/15 MOROHA F.A.D.yokohama。この日のライブを恐らくMOROHAは忘れることはないだろう。
この日のライブには態度の悪い数名の客がいた。後方でおそらくお酒が入っていたのか騒ぐ客が数名いた。「これが聞きたかった!」とか、彼らは曲が始まるたびに叫び、始まったあとも騒いでいた。簡単に言えば、演奏されるMOROHAの音楽が彼らが泣くためのちょうどいいBGMになっていた。別の言い方をすれば、セックスするためにフェスに行くのと同じ感じだ。

一方、別の客がその状況を見かねてなのか、「アフロもっとこいよ!」とアフロに助けを求めるかのように曲の合間に叫んだ。
アフロはその場では何も言わず、曲の間奏でアンサーした。「おい、さっき俺にもっとこいよって言ったやつ。俺らはもっと行くからさ、お前もそこにちゃんといろよ、頼むから、頼むからさ」と伝えた。

ライブ終盤、「四文銭」が演奏された。真剣に聞く客、呑んだくれてふざけてる客、アフロが何も言わないことに不満を抱く客、その場にいる全ての人に対してアフロは「どうか聴いてください、お願いします」と言った。
その瞬間、アフロの底知れぬ覚悟を見た気がした。もちろん歌詞の一部なのだから演奏されれば歌われるのは当然だけれども、この時のこの言葉の重み、覚悟は別格だった。態度が悪い客と言ったところで、それは観客AとかBでしかなく、名前も顔もわからない。どう考えたって実名、顔出し、全てをむき出しでぶつかってくるMOROHAには勝てない。

なんの曲か忘れたが曲の間奏で、「W杯を眠い目で見てた?頑張る選手を見終えた後、テレビ消した後に映る自分の顔、どんなだった?」と言った。
僕は自分がなんとなくW杯が苦手な理由がわかった気がした。人が頑張っていることを見世物にして勝手に感情移入して、そのたった2時間だけは味方のように振る舞うその身勝手さが苦手なのだ。
MOROHAのサードアルバム、この最後を飾る曲「四文銭」の中の歌詞でこんなのがある。
「今すぐプレーヤーの停止ボタンを押して お前はお前のやるべきことをやるんだ」
彼らは自身の音楽がリスナーにとって救いになるとは思ってない。聴いた人が行動してこそ意味のある、そう考えている。四文銭のラストはこう括られる。
「命を懸けて、命を描け」
ベストアルバムツアーの最初を飾るライブがこんなにもMOROHAとしての覚悟が問われるものとなるだなんて思いもしてなかった。ただ、彼らがやってきた十年間は、騒ぐ観客がいようと、煽られようと、決して揺るぎない地盤を作り上げた。だから、あのライブのMOROHAはいつも以上にかっこよかった。そして、あの日を経たMOROHAはきっとさらにカッコよくなる気がした。

Spotify、Apple musicは音楽業界を救うのか?

サブスクリプションサービスをめちゃくちゃ使ってるまちだねこです。

サブスクリプションサービスとはSpotifyApple musicなど、定額で音楽が聴き放題なサービスです。アーティスト側へは、再生数に応じてお金が払われるシステムです。

そんな今はやりのサブスクリプションサービスについて考えていきます。

 

なぜ、サブスクリプションが流行るのか?

かつて、音楽はレコードやカセット、CDを買うことで手に入れていました。それがサブスクリプションサービスの登場によって楽曲を所有せず、楽曲のシェアすることで完結することになりました。

サブスクリプションサービスを利用する人は、多分良い音で聴きたいとかが目的ではなく、YouTubeで無料で音楽を聴くことになんとなく使いづらさや罪悪感を覚える人が多い気がします。ただ、これだけではあまりヒットしませんでした。

最近のサブスクリプションサービスの普及に大きく関係しているのは新曲解禁です。新曲をラジオで宇宙初オンエアするよりも、サブスクリプションで早く解禁することで再生回数を稼ぎアーティスト側へ換金するという変換になるわけです。

 

曲ではなく気分で音楽を選ぶ時代に 

サブスクリプションには、誰かが考えたプレイリストを見ることができ、聴けるという文化があります。今までipodのプレイリスト機能などは、ほとんどのユーザーが使用していなかった機能になります。その理由は単純で楽曲同士のつながりを考えるのがめんどくさいからです。

では、そのプレイリスト化をサブスクリプションサービスで誰かがやってくれるようになった時、ユーザーは何を基準に選ぶのでしょうか?

もうユーザーは、音楽を聴く順番すらめんどくさく、音楽→気分という流れではなく、気分から音楽を選ぶという流れに移行しているのではないでしょうか?例えば、「陽気な日曜日にぴったりなプレイリスト」「集中する時に聴く曲」などが良い例です。

つまり、人々は音楽を選ばなくなってきています。重要なのはその曲がどんな気持ちにさせてくれるか、だけなのです。これこそが音楽業界に押し寄せる「体験」の重要さなのだと思います。フェスの動員が増えるから、ではなく、気分で選ぶからこそ音楽は「体験」と化しているのです。

サブスクリプションサービスが流行るということは、音楽を選ばせることから選ばせないことへの変化を表した現象なのです。

 

だからこそ楽曲のつくりが変化してきます。最近、歌詞が良い曲を求める層とメロディーが良い曲を求める層が分かれていると感じる部分が多々あります。特にシティーポップが良い例です。シティーポップは多くが高層ビル、都会、オシャレさをイメージするようなメロディーで、BGMとして最適化された歌詞が並びます。そこに歌詞の意味は希薄になり、語感やリズムのみが重要視されます。BGMの曲が何かとか普段あまり気にならないように、ここでも曲ではなく曲から受ける体験が重視されています。

まとめ:音楽のBGM化

このような音楽のBGM化は今後も進んでいくと思います。そして、夏フェスのように一夏の思い出のBGMとして音楽は消費されていきます。

ただ、一発殴られるかのような強い歌詞や、語りかけて救われるような音楽も時には必要で、10年後も音楽で救われましたという人がいなくならないようにしなくてはならないと思います。

サブスクリプション・マーケティング――モノが売れない時代の顧客との関わり方

サブスクリプション・マーケティング――モノが売れない時代の顧客との関わり方

 

 

僕らは大人にならなければならないのか?

子供の時、大人はなんだかかっこ悪いと思っていた、まちだねこです。

みなさんもそんな思いを抱いていたのではないでしょうか?今回は、『少女革命ウテナ』を題材に、「大人になること」について考えていきます。

 

少女革命ウテナとは?

幼い頃に自分を助けてくれた王子様に憧れ、自分も王子様になりたいと願うようになった少女・天上ウテナは、入学した鳳学園で「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女・姫宮アンシーと出会う。エンゲージした者に「永遠」に至る「世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」をかけて戦い続ける生徒会役員(デュエリスト)たちは、ウテナがかつて王子様から貰った指輪と同じ「薔薇の刻印」と呼ばれる指輪を持っていた。ウテナもまたこの決闘ゲームに巻き込まれ、その背後にある「世界の果て」へと迫っていく。

wikiより引用

ウテナが描く大人像とは?自立とは?

「世界の果て」を見せられることにより、デュエリストたちは心変わりしたかのように、ウテナに戦いを挑み、薔薇の花嫁を手に入れ、夢を叶えようとする場面が存在する。幹と梢はお互いがお互いを縛り付け、子供のままでいようとする関係を、樹里と早苗は同性の友達の幸せであり続けることを、冬芽と西園寺の友情関係を、西園寺とアンシーの恋愛関係を、それぞれのデュエリストは叶えようとする。

「世界の果てを見せられる」とは、自分の理想が叶う姿を見せられる、夢を再確認させられるということを意味している。天上ウテナは夢を信じぬいてきた。その夢を信じ抜く強さで他のデュエリストたちとの戦いに勝利していた。

ただ、いつか子供は大人にならなければならない。ウテナにとってのその転機は、学園の理事長 暁夫の登場だ。暁夫に恋をしたウテナは、暁夫と1夜をともにする。これにより、ウテナは自分の王子様を手に入れ夢を叶え、大人になる。大人になることで、純粋に夢を信じ抜く力が失われてしまうのだ。

そして追い打ちをかけるようにウテナに現実が迫ってくる。ウテナは暁夫と妹のアンシーが関係を持っていることを目撃する。今までは友達であったアンシーが、恋敵になり、彼女を本当に助ける必要があるのか、現実を目の前に提示されウテナは悩む。

そして最終的にウテナは最終的に学園から追放されてしまう。学園を出るとは、大人になることを意味している。つまり、ウテナは現実を知ることで大人になったことが示唆される。

 

僕らは大人にならなければならないのか?

夢を信じる力の強さこそがウテナの強さであった。それが暁夫との恋愛により現実を知ることで、純粋に信じる力を失い、現実を信じる大人になってしまった。

ただ、薔薇の花嫁であるアンシーがウテナを探すために学園を出るシーンでこの作品は幕を閉じる。大人になった上で、現実を知った上で、なおかつ夢を信じぬいて生きれる希望を残して終わる。

大人になる/ならないということよりも、大人になり現実を知った上で夢を見続けるためにもがくことこそが希望になるのだ。

伝えたいことを伝えるコミュニケーション術とは?

人の顔をあまり直視できない、まちだねこです。

僕は人の顔をほぼ見ないでコミュニケーションを取っています。だから、声で人を区別しています。なぜだか、顔とかを見ると情報が多すぎる気がするからです。ただ、特に不自由はしていません。コミュニケーションのとり方は人それぞれです。

そんなコミュニケーションについて映画『聲の形』から考えていきます。

 

聲の形』あらすじ

主人公の石田は小学生の頃、聴覚に障害を持つ女の子西宮硝子をいじめてしまいます。それがきっかけとなり、彼は中学以降彼自身がいじめられる対象になっていき、上手く人とコミュニケーションが取れなくなっていきます。そして、高校生になった石田はかつていじめていた西宮と再会します。

 

コミュニケーションのとり方

この映画では一貫して、「伝えられないもどかしさ」を描いています。

石田は小学生の時になぜ西宮をいじめていたのでしょうか?彼がいじめた理由は、劇中ではっきりと明らかにされません。ただ「耳が聞こえないことをからかう」ことが目的ではなく、何かを西宮に伝えたいけど、耳が不自由な西宮にうまく伝えられないからそれが「いじめ」という表現になってしまっていることが推測されます。

また、西宮自身もあまりにも純粋だからこそ、人から責められるとすぐに謝ってしまうところがあります。他の登場人物もそれぞれ気持ちに従って行動しているけれど、みんなもどかしさを抱えています。

 

巷にあるコミュニケーション術のハウツー本は、「コミュニケーション」というカタカナ言葉でなんとなくぼやかされている。結局の所、その人に何を伝えたいのか、というところが最初にあってこそ、初めてどうやって伝えればいいのか?というところが大切なのではないでしょうか。

もっと極端な言い方をすれば、別に伝えることがないならば伝える必要はないし、関わる必要もないわけです。けれども、本当に伝えたい人にはどんなに不器用でもいいから必ず伝えるべきです。だから、究極のコミュニケーション術は「相手に伝えたいことを見つける」だと思います。

 

 

【ライブレポ】渋谷www xでみたindigo la End「PULSATE」

昨日、渋谷www xで行われたindigo la Endのライブを観に行った。

アンコール最後の曲は「名もなきハッピーエンド」。周りが盛り上がる中で僕は泣いていた。知らないうちに泣いていた。この曲をwww xでアンコールの最後にやることこそが彼らの今までを全て背負っている感じがした。



indigo la End 名もなきハッピーエンド~東京編~

時間を遡ろう。2013年indigo la Endはインディーズでまだゲスの極み乙女。川谷絵音自身も今ほど有名でない頃。彼らは比較的新しいライブハウス渋谷wwwでライブをした。「名もなきハッピーエンド」が収録された「幸せな街路樹e.p.」のリリースライブだ。このCDはライブ会場限定発売で、このライブに来ないと買えないCDだった。

この日のライブ、絵音さんがMCで当時CDを買った人に終演後メンバー全員がサインすると言った。これを受けて、急遽サイン会が開催されることとなった。

ライブ終了後、当然のようにライブに来ていた観客はほぼ全員サイン会に並んで、ライブ後1時間ほどメンバーは急遽サイン対応をしていた。僕は後ろの方にならんでいたため、メンバーにたどり着く頃には、その頃のメンバー絵音さん、長田さん、オオタさんは疲れ切っていた。だから、あまり何を話したかは覚えていない。ただ、その時にサインしてもらったCDは今でも大切に持っている。

 

渋谷wwwでのライブから5年後のライブ

それから5年後、渋谷からはパルコがなくなり、公園通りという名前だけが残った。渋谷wwwの隣には渋谷www xというライブハウスが出来た。そのライブハウスでやったライブが今回の「PULSATE」だ。

そこで最後の最後にやった曲が、「名もなきハッピーエンド」。しかもMVで使用し、2013年のリリースライブでも活用していた青いギターを使っての演奏だ。

イントロが始まった瞬間、涙が止まらなくなった。

この5年間はindigo la Endというバンドについて、あまりにも山あり谷ありだった。川谷絵音の個人の問題からゲスの極み乙女。のブレイク、indigoはメンバーチェンジ、そして、女性コーラスを基本とした編成への移行などさまざまなことがあった。

「名もなきハッピーエンド」を聞きながら、正直なところあの頃2013年の渋谷wwwに見に来ていたお客さんたちは今のindigo la Endを見ているだろうか?と曲を聞きながら考えていた。あの誰一人として、サビでも手をあげない、モッシュなんで起こる訳がない、それでもインディゴが好きでたまらなくてライブに来ていたお客さんは今での聴いているだろうか?

あの頃に僕らが好きだったインディゴはもう見ることはできないと個人的には思っている。今回のライブを見て、彼らが昔とは違う方向性を目指していることを核心させられた。そんなことを見せつけられて、ただ、悲しかった。

 

「 名もなきハッピーエンド」に向かうまで

ライブ終わり、物販に長田さんと後鳥さんが出来てきた。2013年のライブの物販に全員が出てきて行ったサイン会を思い出した。そのころはオオタさんがいた。

僕はたまらなくなって、それまで大して興味もなかったグッズの物販に並び、カーティスに話しかけた。

「長田さん、渋谷wwwでライブ後に急遽やったサイン会に参加していました!」「めっちゃ懐かしいw」「しかもかなり前のTシャツ着てるじゃん」「これからも応援してます!」

思わず言ってしまった。けれども、昔好きだった方向性でなくても、これからも応援していますという気持ちはやはり変わらない。

indigo la Endが「名もなきハッピーエンド」にたどり着けるまで、応援しています。