サブカル備忘録

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芥川賞受賞作『ニムロッド』はなぜ仮想通貨を扱ったのか?

第160回芥川賞受賞作 上田岳弘著『ニムロッド』。芥川賞受賞作ということで話題であるが、この小説の重要な点は別にある。それは、「仮想通貨」をモチーフとして登場させて、それを文学界に認めさせたことにある。

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

第160回芥川賞受賞 ニムロッド

 

文学とテクノロジーは水と油

文学とテクノロジーは乖離が起きやすい。まず文学側の人間がテクノロジーについていけていない。

「人の温かみがない」という理由だけでヘイトされることさえある。

ただ根本的な原因は、双方の持つスピード感の違いが大きい。文学は普遍的な人の内面の機微を記述することに適している。

テクノロジーは日々移り変わり、人の生活を便利にして手間や考えることを減らすシステムである。そもそもが相容れない。

 

ニムロッドはなぜ仮想通貨を扱ったのか?

そんな中で、『ニムロッド』はテクノロジー側の「仮想通貨」と文学を接続した。

現在まで「仮想通貨」や「ビットコイン」は金儲けの道具としか認識されていない。「仮想通貨で儲ける5つのポイント」というテンプレ的なニュースやWeb記事ばかりが取り上げられ、サラリーマンでもできる簡単な副業として紹介され続けている。

しかし、ビットコインには強烈な思想的背景が存在する。中央政府が発行する通貨を代替するものとして、分散型管理により中央集権的ではない新しい貨幣を作るという思想である。だからこそ、中央政府を脅かす存在として開発者の「ナカモトサトシ」は追われている。ただ、誰が「ナカモトサトシ」なのか現在までわかっていない。

そんな歴史的背景は考慮されずにドルや円など中央集権的な貨幣を増やすツールとして、おもちゃのように仮想通貨は扱われていた。それを『ニムロッド』では、仮想通貨の思想や存在に着目して、「虚ろ」という感覚と紐付けることで文学と接続している。これにより、仮想通貨という思想に着目され、文学によって「仮想通貨」という言葉のイメージがアップデートされることができれば、文学は大きな力を発揮したと言えるのでないだろうか。

仮想通貨は、英語で"crypto currency"、つまり暗号通貨と呼ばれている。ただ、日本語では仮想通貨と呼ばれていることが多い。単に暗号通貨ではなく、仮想通貨として捉えている日本語だからこそ、言葉のレベルから可能性を更新することはあるのではないだろうか。

 

Peole In The Box"ニムロッド"との関係

最後に少しだけ、この小説のタイトルの元となった、People In The Boxの『ニムロッド』という曲について書きたい。

https://youtu.be/LME2bCe3_J8

あの太陽が偽物なんてどうして誰も気づかないんだろう

この曲の終盤に出てくる歌詞だが、太陽=仮想通貨のことだと単純に結びつけていいのだろうか。「情報化社会」という言葉は、「社会」とほぼ同義として機能している。それだけ、現代ではネットワークなんて目に見えないものが圧倒的なインフラとして機能している。さらにフェイクニュースもはびこるなか、偽物を見抜くことは難しい。そもそもホンモノとニセモノの絶対的な境界があるのかさえも怪しくなってきた。

こんな時代だからこそ、言葉によるイメージや世界の捉え方の更新を期待したい。

Citizen Soul

Citizen Soul

 

 

Netflix『アメリカを荒らす者たち』からみる「アメリカを荒らす者」の正体

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Netflixドキュメント『アメリカを荒らすものたち』ハノーバー高校落書き事件簿。

シーズン2が配信されて数週間立つ。ここでは改めてシーズン1の魅力とその真相を考えてみる。

1.あらすじ

このドキュメンタリーは、ハノーバー高校で教員の車に行われた落書きの犯人を探す物語である。主人公は放送部の青年。容疑者として大した証拠もないのに退学となった生徒の無実を証明するために真実を追い求めていく。

真実を追い求める中で様々な事実が明るみになり、それがまた事件を引き起こしていく。

男女の交友関係、両親との確執、友情、そんな青春映画では軽いスパイスになりえる要素がここでは人の人生を左右しかねない大きな出来事へと発展していく。

 

2.『アメリカを荒らす者たち』とは誰なのか?

誰が犯人か?という推理ゲームはもちろん楽しいが、ここではタイトルに注目して話をすすめたい。

アメリカを荒らすものたち』原題はAmerican Vandal。ハノーバー高校という地方の高校を舞台にして繰り広げられる話なのに、なぜ『アメリカを荒らすものたち』なのか?

今、最もアメリカを荒らしていると言われるのはドナルド・トランプである。彼は、フェイクニュースという単語を広めた一人でもある。

また、同じような言葉で「オルタナティブ・ファクト」という単語もある。

これは、トランプ大統領の就任式がオバマ大統領の就任式に比べて来場者数が多かったとする発言に対して、航空写真から判断するに明らかな誤りにもかかわらず、大統領顧問が養護するために「もう一つの真実である」(Alternative facts)と発言したことに由来している。

話を『アメリカを荒らすものたち』に戻すと、この話の中で主人公ピーターはドキュメンタリーを取る中で繰り返し、「真実を知りたい」と発言する。

終盤に差し掛かるに連れて、何が真実かわからなくなり、そして、真実が人を傷つける場面も目の当たりにする。つまり、この話では、真実は常に見る側や受け取る側の都合の良いように改変されることを描いている。「真実はいつもひとつ」そういう世界にはなかなかならない。

アメリカを荒らす者」。その正体は犯罪者でも落書き犯でもなく、一つの真実を頑なに信じ込んで他人を避難したりする者たちのことではないだろうか?

 

同じテーマを扱った作品に森達也監督の「FAKE」がある。これは佐村河内氏の盗作疑惑に関するドキュメントであり、世の中から明らかに疑いの目を向けられた佐村河内氏に対する救いと追求の話である。こちらも未見の方はぜひ御覧ください。

FAKE

FAKE

 

 

「デイドリーム 祈り」銀杏BOYZ武道館ライブDVD

「デイドリーム 祈り
なんでこんなタイトルなんだろう?あの時、武道館にいたけれども分からなかった。
すぐ思いつくのは、ザタイマーズの名曲「デイドリームビリーバー」。そして、銀杏BOYZなら「夢で逢えたら」。

銀杏BOYZの武道館公演を収めたライブDVDをポレポレ東中野で見た。
特に何も特別な編集がされてない単なる武道館ライブを収めたライブDVDだった。
ただ、上映が行われた映画館では鼻をすする音があちこちから聞こえた。
しかも、感動映画のフィナーレのようにみんなが同じタイミングで泣くのではなく、それぞれが全く違う曲で泣いていた。ある人は「エンジェルベイビー 」ある人は「若者たち」またある人は「駆け抜けて性春」。

祈り」とはあまりにも身勝手な行為だ。特に行動をするわけでもなく、願い続ける。
ただ、願うことによって救われることもある。誰かが救われる時を人は奇跡と呼ぶ。ただ、祈りの多くは、祈ることによって祈った自分を救うことを目的としている。
では、銀杏BOYZが、女の子への届かない想いやストーカーに近い片思いを歌い続ける「祈り」は、誰を救うのか?

こんな表現、陳腐だから避けたいが、峯田和伸はカリスマだ。ただ、ヒーローではない。彼はカリスマよりも近い位置で僕らの気持ちを歌ってくれる。
彼の祈りは、僕らを救う。こんなにも純粋ではたから見たらどうしようもなくて気持ち悪いかもしれない想いすらも分かるよと肯定してくれる。

「ぼくたちは世界を変えることはできない」と歌うけれども、少なくとも銀杏BOYZはぼくの世界を肯定してくれた。
もしかしたら、僕は知らないうちに峯田和伸にかなり影響を受けていたのかもしれない。
そして、かなり救われていたのかもしれない。 そんなことに、こんなにも当たり前なことを明確に気付かされた。
あんなノイズしかないCDからこんなにも良い言葉が、音楽があるだなんて、今更気付かされた。よかった、これに気がつけて。

デイドリーム 祈り [DVD]

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『ヒットの崩壊』そして、、、

柴那典の『ヒットの崩壊』という本が少し前にヒットしていた。なんとも文字面だけ見ると不思議な感じだが、この本は音楽業界の現状をまとめている素晴らしい本である。ただ、日本ローカルで少し違う観点から音楽業界の現状と今後を考えていく。

そもそも資本主義的にヒットしてミリオンになったアーティストが正解という考えがここ日本では違う気がする。
チャンス・ザ・ラッパーよりも、「それでも世界が続くなら」や「大森靖子」「神聖かまってちゃん」の方が音楽によって救ってる人の数は多い。だからこそ、音楽による救いを求める人たちがたどり着けるような回路は残さなくてはならない。
これが出来ず、ヒットばかりに目が眩んでいた時代こそが90年代のミリオンセラーが多発していて、みな浜崎あゆみを聞いていた均質で無個性な時代だったのだ。
本書の中で指摘があるように趣味や興味は「島宇宙化」している。つまり、オタク化している。「日本の音楽が好き」と一言で言っても、それが日本語ラップなのか邦楽ロックなのか、邦楽ロックの中でも、SiMや10FEETのような京都大作戦系なのか、ラブ人間のような下北系なのか、ZAZEN BOYSのような高円寺系なのか、ceroのようなcity pop系なのか、はたまたま神聖かまってちゃんような特定の場所をアイデンティティーとしないネット系なのか、などなどかなり多様化している。

毛皮のマリーズVo、現ドレスコーズの志磨遼平は、自身のアルバム「平凡」のインタビューで、ロックが抱える3つの問題を挙げている。
https://www.cinra.net/interview/201703-dresscodes?page=2

 

その中の一つに「どうして毎年、自分は新しいアルバムを作らなくてはいけないのか?」がある。これはアーティストが直面するあまりにもセンシティブな話だ。新曲を出さないとアーティストは忘れられる。ただ、モノを消費する社会からコトを消費する社会になるにつれて、新曲が持つ価値が減っているという事実もある。例えば夏フェスで一番盛り上がるのは、KANA-BOONのないものねだりなど、決して彼ら最も良い曲だとは言えない、認知度が上がったタイミングの曲である。
だからこそ、「音楽で一人一人にどれくらいの最大瞬間風速を起こせるか?」という問いこそが意味を持ってくる。その人々によって最大瞬間風速の測定方法は違う。先に挙げたような「大森靖子」や「それでも世界が続くなら」などは確実に個人を救っている。大森靖子はライブで「あなたたち一人一人」と繰り返し強調する。つまり、「お客さん盛り上がってるかー!」ではなく、一人一人と向き合うことに価値を置いている。
そして、ただ確実に言えるのは今ヒットや売り上げを第一目標としても、ヒットしない。ヒットはあくまで個人的最大瞬間風速が各地で発生した結果の現象だ。

つまり、ヒットが崩壊した後に島宇宙化が進み、ヒットが生まれにくい中で、一方で「チャンス・ザ・ラッパー」のようなリスナーの聞き方をハックしたヒットメーカーも生まれているという『ヒットの崩壊』に対して、「音楽で一人一人にどれくらいの最大瞬間風速を起こせるか?」という指標こそが今後重要視されるべきである。

ドレスコーズ 360°完全解放GIG @新宿紅布

僕らはおそらくすごい秘密を抱えてしまったのかもしれない。
ドレスコーズの志磨遼平はこのライブ前半に「ここで起きたことは僕らだけの秘密だよ」と言った。そして、ライブが終わった後ふと気がついたのは、ライブ中のことをあまりにも覚えていないことだ。何が起こったのかよく分からなかったのだ。だから、ここには始まる前と終わった後の話を書く。

今日は「360°完全解放GIG」という響きのせいなのか1日中そわそわしていた。今までに何十本というライブを行っているはずなのに、ものすごくそわそわしていた。会場に入った瞬間目に入る、フロアの真ん中のバンドセット。何がどうなのかよく分からなくなりますます緊張は増すばかりだった。
そして、開演時間7時半。お客さんの入場が終わらないのか、なかなか始まらない。なんだかとても緊張していた。まるで初めてライブを見にきた学生かのような気持ちでいた。
会場BGMが次々と流れて行く。僕らはその移り変わりに揺られながらもそわそわしていた。BGMの音量が上がる。
「あぁ、知ってるやつだ、ライブが始まるやつだ!」

1音目が鳴る。その瞬間にライブが好きな理由がなんとなくわかった気がした。こんなセックスなんかよりも何倍も気持ちよい瞬間を味わえる快楽があるからやめられないんだと。音と音と音と音。そこにあったのはまぎれもないライブ感だった。

ライブが終わりみな汗だくになりながらも、志磨くんの乾杯の音頭を待つためにフロアに残った。志磨くんが出てきて、「乾杯!」の声とともに客席にダイブする。もう何が何だかわからない。ただ、あそこにいた人たちはみんな笑っていた。多分あそこには幸せが確実にあった。

ドレスコーズほど見る人たちを裏切るバンドを僕は知らない。そして、彼らほど見る人たちを幸せにするバンドを僕は知らない。

平凡【Digital ALBUM】

平凡【Digital ALBUM】