モテるための音楽、モテないバンド
バンドマンはチャラい。
「バンドを始めたきっかけ?あぁ、モテるためです」
よくバンドマンがこう答える。けれども、果たしてバンドはモテるのだろうか?
モテるための音楽
結論を先に言えば、モテるために音楽をやるならEXILEに入ることだ。確実にモテる。おそらくきっと多分絶対モテる。
サブカル界隈においてモテるに関係する作品といえば、まず思い浮かぶのが『モテキ』だ。
あれはさえないサブカル野郎の藤本幸雄がある日突然モテはじめる話だ。ただ、あの作品の中でヒロインとの出会い方は、空から降ってくるわけでもなければ、曲がり角でぶつかるわけでもない。何てことはない、幼馴染や中学の同級生、以前の会社の同僚など今まで知り合いだった人からモテるようになる。
つまり、藤本幸雄はいくつかのモテるための種を持っていて、それが同タイミングで発芽したのだ。そこがあのマンガのリアルさであるし、共感できるポイントだ。
モテキ的なモテ方とは、現実的に考えればハーレムを築くことではなく、以前から友達ないし知り合いから好意を抱かれることなのだ。
ここがEXILE的なモテ方とは異なる。
つまり、あれはメジャーになるからこそ、自身のブランド力が上がり、漠然としてモテるようになり、結果として可愛い女の子に出会える確率が上がるという仕組みだ。広告会社の人がモテるとかも同じエグザイル理論だ。
バンドマンはかっこ良くないけどモテる。
さて、ブランド力の向上によりモテるEXILE理論については見てきた。けれどもこの話は多くのバンドマンには当てはまらない。
では、最初のバンドマンが言っていた「モテたい」とは、なにか?
モテたいから音楽を始めるならモテる対象はファンだ。ただ、このファンというのは彼らが好きなのではなく、彼らの音楽を含めて好きなのだ。というよりも、むしろ演奏してる姿が好きなのだ。
基本的に音楽が評価されているバンドマンは容姿が決して淡麗ではない。わーきゃー、かっこいい、というのはバンドマンの容姿に対してはほぼありえない。もし、そうであるならば、バンドをやらないでモデルをやるべきだ、タレントになるべきだ。
川谷絵音がニュースに取り上げられた中で、あんなモヤシみたいなのどこがいいのかわからないという意見を2chやTwitterでよく見た。
そのモヤシみたいというのは全くもって間違ってない。だか、それでも僕が川谷絵音はかっこいいと思うのは、彼の音楽を知っているからだ。演奏する姿を知っているからだ。つまり、ネットの彼ら彼女らのディスは的外れなのだ。というか合ってるが何も本質をついてない。
アーティストはアーティストでなければカッコ良くない。
歌詞に意味なんていらない?
「どっかの司会者言っていた 歌詞に意味なんて要らない」
キュウソネコカミのMEGA SHAKE IT!の歌詞の一節だ。この元ネタは、ヨルタモリでタモリが言ったことなのだが、果たして本当に、歌詞に意味はいらない?
意味がない側の代表としてindigo la EndとPeople in the box、ある側の代表として西野カナで考えてみる。
歌詞に意味なんていらない、のか?
歌詞に意味なんていらないということは、曲の中での言葉は音として認識され、意味を持たないということだ。洋楽などその人の母国語でない音楽はそういう聴き方になる。言葉もギターやドラムと同じように楽器として知覚されるのだ。例えば、歌詞の意味が全くわからないオマールスレイマンの楽曲が分かりやすい。全く意味がわからないが、なぜか面白いしテンションが上がる曲たちである。
歌詞は言葉からできる
さて、日本語で意味が無い歌詞とはどういうことか。最も代表的なのはきゃりーぱみゅぱみゅだが、ここではindigo la End、People in the boxから考える。
indigo la Endでは、初期の楽曲では意味が無いように思える単語が用いられている。ジョン・カーティスではサビで、こう歌われる。
新世紀の人間 サイボーグみたいだ
dislike an apple? そうだよ
ライブのMCでも本人が言っていたが、意味が分からない。けれども、ここから、川谷絵音がPeople in the boxなどの歌詞を言葉に解体してきたバンドの影響を受けていることが読み取れる。indigo la Endについては以前も違う切り口書いたので参考までに
indigo la Endはメジャーになれるのか? - サブカル備忘録
People in the boxは、今も昔もずっと歌詞の意味が分からない。いや、正確に言えば、歌詞も言葉なので単語としての意味は存在するが、曲を通して筋の通った意味が存在しない。彼らは、言葉によって断片的に形成されたイメージを積み重ねることで世界観を構築している。
She Hates Decemberのサビはこう続く
壊したくない?壊したい? 棺 白い床が廻る
She Hates December 月が消えた僕らだ
満ちて 欠けて 擦り切れるのは
「棺」は死の象徴であり、冷たい感覚がする。「月が消えた」も同じく死を暗示するような単語であるが、月は生と死のようにオンオフではない。だからこそ、次に満ちて欠けてという変化について歌っている。
と、歌詞を解釈してみても、言葉の並びの説明になるだけで、結局、歌詞の意味についてはわからない。だが、言葉によって意味を積み上げるというある意味最も基本的な言葉の使い方をしている。だから、Peopleは、どんなバンドより、歌詞が言葉から成り立つことを考えているバンドだとか考えている。
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歌詞に意味がある、ないとは?
歌詞が大切にされているアーティストといば、代表は西野カナだと思っている。
「会いたくて、会いたくて、ふるえる」
この言葉を知っている人はかなり多くいるだろう。けれども、この言葉のメロディーを歌える人は言葉を知っている人に比べると一気に少なくなるはずだ。つまり、西野カナは歌詞が有名になるアーティストなのだ。
歌詞が有名になるとは、もちろんインパクトのある言葉ということもある。この会いたくて~は恐らくその部類であろう。けれども、ラブソングの多くは歌詞に意味があると言われる。この歌詞に意味があることのは、歌詞の言葉に共感することと同義なのだ。
歌詞に意味がない側のPeopleは言葉からイメージを与えている。歌詞に意味がある側の西野カナを代表とするラブソングは言葉によって共感を与えている。
両者のアーティストについて意味という切り口で考えると異なるが、実は本質的には似ているのかもしれない。
マンガを実写化する方法
森達也の著書で「ドキュメンタリーは嘘をつく」というものがあるが、フェイク・ドキュメンタリーはドキュメンタリーに見える映像の中に嘘を絡ませていくものになる。またの名をモキュメンタリーとも呼ばれる。「ブレアウィッチ・プロジェクト」や「パラノーマル・アクティビティ」などホラー作品が海外では目立つ一方で、日本では最近、「山田孝之の東京都北区赤羽」や「その「おこだわり」私にもくれよ!!」などのホラーではないフェイク・ドキュメンタリーがある。そんな嘘をホントっぽくみせる映像から、アニメやマンガの実写化について考えていく。
『山田孝之の東京都北区赤羽』は何がすごいか
山田孝之の東京都北区赤羽もその「おこだわり」私にもくれよ!!も同じく同名の漫画を原案としたドラマであるが、マンガの実写化としてはかなり素晴らしい。一見、全く実写化していないのだ。山田孝之の東京都北区赤羽を例に見ていこう。
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このマンガは、このマンガの作者である清野とおるが実際に赤羽で会った面白い人々について書いている、ノンフィクションマンガである。この実写化に際して、主人公は山田孝之が演じた。
では、ドラマ「山田孝之の東京都北区赤羽」のあらすじを少し見てみる。
2014年夏。俳優・山田孝之はとある映画撮影で「自身とその配役との区切りが付かなくなる」というスランプに陥ってしまう。そんな時彼は漫画『ウヒョッ!東京都北区赤羽』と出会い、これに感銘を受ける。そして山田は自身と付き合いのある映画監督・山下敦弘を呼び出し、「赤羽に行けば本当の自分に出会える気がする」。だから俺は赤羽へ行く。「赤羽での自分を撮影してほしい」と依頼。
参考元 wikipedia該当項目より
原案となったマンガにはもちろん山田孝之は登場しない。この実写化は東京都北区赤羽の面白いところは何か?ということを突き詰めて抽出し、山田孝之によって出力した作品だと言える。つまり、この漫画のそもそもの魅力は、赤羽に住む人々とのふれあいである。それを単に俳優を割り当てて演じさせるのでは虚構になってしまう。実際に変な人がいるからこそ面白いのだ。アリスの世界にハンプティーダンプティーがいるのは当然のことでありなにも驚かれない。
そこを捉え、監督の松江哲明と山下敦弘は、山田孝之がその変な人たちと交流するドラマに仕立て上げたのだ。
ウソの世界、芸能界
このドラマのすごい所はもう一箇所ある。このドラマには、単に人々と交流するだけでなく、それによって山田孝之自身が成長するストーリーが存在する。その際に綾野剛や大根仁、作者の清野とおるまで本人役で出演する。
芸能人はフィクションとノンフィクションの間の存在だ。え、氷室京介って水飲むの、、みたいなのが分かりやすい。もちろん人として存在しているからノンフィクションなのだが、映像で見る限りフィクションとも言える。
ドラマの北区赤羽では、芸能人というある種フィクションとノンフィクションの間の存在を用いて、視聴者はこれは本当の事なのでは?とより頭を悩ませることになる。けれども、この虚構か現実かわからないあたりがフェイク・ドキュメンタリーの最大の魅力であり、芸能人を使うことでさらにややこしくしているのが、この作品が最高な理由だ。
嘘=ウソのマンガと嘘=ホントの映像
嘘を描くのはフィクションの前提だ。だがら、嘘であるマンガを実写化する際には、それがまともに見えるように変換する必要がある。よく町中で似顔絵職人を見かけると、必ずデフォルメした似顔絵がある。すごい顎尖ってるけど似てるみたいなあれだ。けれども、それが本人に見えるのは彼ら彼女らが特徴をつかむ能力に長けているからだ。
だからこそ、マンガや小説、アニメを実写化する際には、その作品の核となるものは何なのか。ということを考えるべきだと思う。近年の映像技術により映像化不可能と呼ばれるものがいとも簡単に実写化されてきた。けれども、技術力にかまけて内容がおざなりになりすぎているのでは?と思う。
最後に実写化に公式に失敗したと言われるドラゴンボールについて貼って、この記事は終わりにする。
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ポケモンGOですがなにか
ポケモンGOにストーリーはない。ポケモンは正確に言えば四天王を倒してポケモンマスターになるというストーリーがある。しかし、このストーリーよりもポケモンについてはモンスターを育てて友達と対戦することがメインとなっている。
島国日本のポケモンが世界に通用するわけ
日本の様々な製品は島国であるせいなのか、それとも日本語という特殊な言語を喋っているからか、ガラパゴス化しやすい。要は世界標準と違うような進化を遂げる。
日本のゲームにもそのことが言える。海外のゲームはGTOやマインクラフト、シムシティーなどのように自由度が高いゲームが多い。その一方で、Jゲームと呼ばれるドラクエやFFのようなRPGはシナリオライターを有し、決まったストーリーが存在する。もちろんジャンルによっての違いがあるため一概には言えないが、かまいたちの夜やギャルゲーなどの紙芝居ゲームが流行ることからもその傾向はあると考えられる。
この与えられた線路をなぞるゲームが発展するというのがとても日本らしい。ある種ゆとり世代を思い出すような言葉の並びでもある。
だが、だからこそ、そんな日本から出たポケモンは、そのストーリーの外でも楽しめる存在であり、海外でも親しまれるコンテンツになった。
ポケモンGOですがなにか
ポケモン赤・緑は1996年に発売された。それから今は20周年である。この期間に小学生だった人が今はアラサーになっている。デジタルネイティブ世代という言葉を良く耳にする。ポケモンなどのゲームボーイからだと仮に仮定するなら、ゲームネイティブ第一世代は、今のアラサー世代である。ちなみにこれはゆとり第一世代でもある。
クドカンこと宮藤官九郎脚本のドラマ「ゆとりですがなにか」の中で、小学校の先生である山路先生のクラスに学習障害を持つ男の子(大悟くん)が転入してくる。大悟くんは計算が苦手であるため、ある生徒が電卓を使う提案をする。しかし、最終的には、授業の進度を遅らせることに繋がるという保護者の指摘により彼は別教室での授業になってしまう。それについて山路先生は、以下のように生徒に教える。
「みんなと一緒に勉強して、みんなと一緒に社会に出るために必要な、特別な措置です。大悟が電卓を使っていい時代がそのうち来ると思う。それが本当の平等。本当の"ゆとり教育"だと先生は思います。」
出典:ゆとりですがなにか第6話
連日、ポケモンGOについて多くが報道され、道行く人みんながやっていることに違和感があるのはもちろんそうだ。ただ、これらを許すゆとりがとても大切なのではないかと思う。ゆとらない世代は子どもにゆとりを与えようとしてゆとり教育は行われた。
こういうゆとりが、テレビワイドショーにもTwitterにも2chにもLINEニュースにも足りないのでは?と思う。
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ポケモンGoの先にあるものは?
ポケモンGoをめぐる環境は日に日に白熱している。この現象について今回は空間のとらえ方という点から考えてみる。
ポケGoの魅力と空間認知の更新
ポケモンのGoは、人々の空間認知を更新した。言い換えると、そこがどのような場所か考える場合においての選択肢が増えたともいえる。つまり、目に見えるだけがすべてでなくなった。
今、仮に、シャッター化した商店街に賑わいを生み出す場合を考えよう。この場合、まず考えられるのは、より魅力的な商品を置くことだ。だが、それにも限界はある。いくら個人商店が頑張ったところで大型のイオンに品揃えで勝てるとは思えない。
次に考え付くのは、イベントを行うことである。例えば聖地巡礼がある。もちろんエルサレムを回る巡礼ではなく、アニメの舞台となった場所を回る聖地巡礼だ。現状ではわざとらしくキャラクターのパネルを駅に置くというあまりにもくだらない、役人が考えそうなプランが多く目立つが、それでも多くの経済効果を生んでいる。
そもそもアニメの舞台と分かるというのは、最近では細かい描写があれでこれでという、ネットで住所を特定されるようなことになっている。けれども、元々はストーリーと雰囲気が良くてそこを舞台にしたはずである。けれどもやらコラボメニューだなんだとかいう、サブカル豚には餌を食べさせとけば儲かる的なことが横行している。
さて、では商品でもイベントでもないもので賑わいを生み出す方法は何か。それこそが今起きているポケモンGoの現象である。
【ライブブログ:ポケモンGO配信開始】 東京都内の公園では、ふだんは人が少ない夜になっても「ポケモンGO」に熱中する大勢の人の姿が見られ、周辺の住民からは驚きとともに懸念の声も・・・。https://t.co/kkHVcZU3Hc pic.twitter.com/0XVThbvgOz
— NHKニュース (@nhk_news) 2016年7月24日
リアルな世界とバーチャル世界があり、それらが相互作用することをポケモンGoは明確に示した。例えば、リアルな世界において何もなく子どもも大人もいない公園でも、ポケストップになりレアポケモンが集まるとなれば人々は集まる。
もちろんこのブームが継続して続くとは思えない。現にingressは今また盛り上がっているが、最盛期に比べると確実にアクティブなユーザー数は減っている。だが、バーチャル世界が存在し、それにより人々を動かせるという事実を知らしめたことは大きな功績である。
ポケモンGoの問題点
さて、そんなポケモンGoにも問題点がある。もちろん議論尽くされている歩きスマホの問題なんかをここで取り上げる意味は無い。では、なにか?
ポケモンが画面から出てこないことだ。何を意味の分からないことを言うのだ、と思うかもしれない。しかし、これが現実とゲームの境界になっている。
ここで、落合陽一の魔法の世紀という本を参考にしたい。落合陽一は研究者であり、現代の魔法使いという名前でメディア出演してることもある。
少し、本の内容について言及すると、時代の流れとしてまず産業革命などにより「物の世紀」が訪れる。次に、軍事のためのプロパガンダや娯楽映画のために「映像の世紀」が訪れた。落合陽一は本の中でこれからは「魔法の世紀」がくると述べている。例えば、妖精を彼は創りだした。
なんだこんなものか。という感想かもしれないが、映像が肌感を持ったという革命である。つまり、映像が物質になった。詳細は本を読んでみるとより分かると思うので未読の方は是非。
ポケモンGoの先にあるものは?
ポケモンGoの問題はポケモンが実際にはいないことだという話をした。つまり、スマホの画面内であることが今の限界である。先の落合さんの話により、ポケモンがより物質的になることが出来た時、スマホの中を飛び出して、「あの子のスカートの中」にもモンスターは現れることができるだろう。