3月のライオンはどこへ向かうのか?
以前、3月のライオンについてこんなことをこのブログに書いた。
羽海野チカは、ハチクロの「ボクとキミの閉じられた恋愛観」から、3月のライオンの集合として愛し愛されるような「擬似家族的なつながり」を描くようになったのだ。
疑似家族的なつながりを強調してきた3月のライオンは12巻で舵を大きく切った。これには賛否両論があったと本人もツイートしている。そこについて考えていく。
12巻の感想は両極端なものが多い。「濃い、読み応えがある」っていうものと「内容が全く無い、心に残らない」という感じ。あと「ご飯美味しそう」と「ご飯はもううざいよ」。「どんどん充実」と「どんどん劣化」。…後は両極端の意見から私が何を見つけるかだな。
— 羽海野チカ*9/29*12巻発売 (@CHICAUMINO) 2016年10月2日
12巻は3月のライオンの変化点
まず、結論から言えば、僕は今回の12巻は賛否両論の「賛」の側だ。
この物語の今までの中心は、主人公である桐山零の抱える闇の部分である。今までの3月のライオンは、読むのが辛くなるような内容がとても多かった。例えば、零くんがどこにも居場所がないことや、川本家の次女ひなたちゃんをとりまくいじめ問題などである。その闇を説明するための前半部を終え、どうこの零くんを救うかという問題に舵を切ったのが今回の12巻である。個々のキャラクターが幸せに向かって進んでいく。
つまり、今までは状況説明の前フリであり、12巻以降がこのマンガの核心であると考える。だからこそ、この漫画の持つダークな部分が本質だと思っていた読者は裏切られたと感じ、ハチクロを期待していた読者にはやっと希望が見えてきて一安心するという評価が生まれる。
幸せな桐山零はつまらないのか
では、そんなダークな部分が完全に漂白された、幸せでハッピーな物語が今後進むのか?そう簡単ではないと思う。
少しだけ話はズレるが、東日本大震災直後、絆という言葉をテレビやネット様々な媒体で目にすることが多くなった。それは、電気などのインフラが止まり一時的ではあるが不自由な生活を強いられたことにより、人の絆を改めて大切にしようという気持ちになった。人々はそんな不安を植え付けられ、意識的にも無意識的にも「人とのつながり」を気にせざるを得なくなった。
話を戻すと、3月のライオンでは、というか羽海野チカ作品の多くは、そんな人のつながりを中心に描いている。ただ、そこで人のつながりを肯定するだけではなく、「つながりすぎると気を使うし、逆につながらないのもさみしい。」というめんどくさい人間の気持ちを表現している。それを踏まえると、今後の3月のライオンも単に零くんや川本家が幸せになるシンプルなストーリーではなく、もっとめんどくさい話になるだろうと想像できる。
だからこそ、12巻に批判的であろうともこれからの3月のライオンを追うべきであるし、未読の人は是非まだ間に合うので読んでほしいと切に願う。
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勇者ヨシヒコの面白さってなんだ?
低予算のものこそ工夫がされていて、面白い。低予算で面白いものを作る、福田雄一監督作品の魅力を今回は考える。
勇者ヨシヒコに学ぶ低予算ヒットの方程式
福田監督といえばまず挙がるのが、勇者ヨシヒコシリーズだ。本作はドラクエのような世界観をダンボールの敵など小道具で撮影した完全低予算作品である。下記サイトに10月7日まで過去作品は無料配信しているので、見たことない方は見てほしい。最高ににくだらなくて面白い。(2017年2月現在は配信されていません)
では、普通の山の中でコスプレした人たちが演じている映像がなぜあんなにも面白いのか?それは、くだらないことを本気でやっているからである。ここで本作では低予算ということは感じさせないくらいの熱演を俳優が繰り広げている。低予算であると感じるのはそのセットや雰囲気が安く見えるからである。
つまり、福田監督作品の方程式とは、演技力のある役者×チープなセットである。このチープなセットこそが逆に余計なものを見せずに役者に集中させる力を持たせている。
『ニーチェ先生』から見る演技と素の境目
また、福田監督が手がけた作品として、『ニーチェ先生』という作品がある。これは先の勇者ヨシヒコシリーズと異なり、原作の漫画を実写化した作品である。福田監督は多くの原作作品の実写化も手がけており、例えば、変態仮面やアオイホノオ、また、来年は銀魂の公開も控えている。
話を戻すと、この『ニーチェ先生』はコンビニを舞台とした店員同士のコメディーである。そのため、コンビニの周りで起こることしか話には登場しない。つまり、実写化する際にも、コンビニのセットとその周りだけでことが済む。だからこそ、セットは低予算ですむが、舞台のようにシーン縛りがある難しさを持つ。
ここで役に立つのが、先の福田監督作品の方程式で登場した、演技力のある役者である。福田監督の演出としてよくあるのは、誰かがふざけてそれが余りにも本気すぎて、出演者が素で笑ってしまうというものだ。
例えば、本作では、コンビニの店長がノリノリで通路を歩き、それを冷ややかな目で他の店員が見るというだけのシーンでも、店長が本気で笑わせにかかるからみんな思わず役を忘れて笑ってしまう。通常ならNGになるシーンもここでは採用される。
この意図は、おそらくバラエティー番組でおなじみの笑い声のSEと同じであると考えられる。役者と演じているキャラクターがあいまいになることで、これはドラマであって演じているのだから笑っていいんだという承認のようなものを与える効果がある。つまり、本気でやる出演者を笑わせるくらい面白くなければ視聴者なんか笑わせられないし、その俳優が素で笑うことであぁ笑っていいのか、笑いどころなのかという承認を得たような気持ちになる効果を生み出している。
新作 勇者ヨシヒコから見る予算の使いみち
低予算監督と言われながらも知名度を上げ、そこそこ知名度が出てきた福田監督が編み出した手法というのは、低予算であることを魅せる手法だ。ただ、さまざまな作品を通して知名度を挙げた監督には予算が多くついてくることが考えられる。勇者ヨシヒコシリーズなんで三作目なのだからそれなりにあるだろう。だが、低予算監督としてのイメージがある福田監督はその予算をどこに使うのか今回の10月から放送開始する勇者ヨシヒコについて考えてみよう。
それはずばり、プロモーションである。本作のプロモーションにおいて、馬車を使った広告やヤフーの検索フォームなど多くの広告を打っている。
その中でも新宿アルタ前に実際の馬車を走らせるという広告はこのSNS時代において、フォトジェニックな対象を作り拡散させることに成功している。実際、勇者ヨシヒコを知らない人にとっても街中に馬車がいるというのは異様な光景である。だから写真に収めてTwitterに投稿する。それを見た勇者ヨシヒコ既存のファンは存在に気がつく。それによりさらに拡散される。その繰り返しにより、ネットニュースやまとめサイトに転載され、さらに宣伝される。
おそらくこの馬車を手配するのはかなりの額がかかっているだろうが、単にアーティストの音楽が大音量で流れるトラックを走らせるより何倍もの効果が予想される。低予算で面白いという手法は、費用対効果を格段に引き上げる広告制作でも工夫されている。
しかし、番組が始まる前の番宣の広告で多くの額を使ったことが予想されるため、ドラマ制作費自体は低予算で作ることを強制される。だからこそ、上手くシリーズものであっても以前のように追い詰められた状態で、クオリティーを保って作れるのである。ただ、まだ本放送が始まる前の段階での推測であるため、本当にそうなるかはわからない。けれども、こうなってほしいという期待を込めてこの記事を終わりにする。
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ジャケ買いって最近してますか?
CDが売れない時代。
要因はいろいろある。その一つがネット配信の普及だと言われている。確かに僕自身、CDを買ってきてそれをパソコンで読み込んで、手持ちのipodに入れれば満足でCDはもう聞かないことはよくある。けれども、CDを買っている。その理由として、作りがある。今回は、いくつかの面白いパッケージの例から作品としてのCDを見ていく。
アルバムと本の同時展開(クリープハイプ)
まず、クリープハイプのアルバム『世界観』である。これは、それよりすこし前に発売されたVoの尾崎初の初小説『裕介』と対になる作品である。尾崎の芸名である尾崎世界観を冠したアルバムと本名の尾崎裕介を冠した本という関係だ。
ここで面白いのは、その中身も対になっていることだ。まず、大きさ。通常のCDアルバムよりもかなり大きく作られている。これにより、小説と同じ大きさになり、より二つの作品が対であることが強調される。
また、中身にも工夫がある。本というのはフォントに特徴がある。この小説で使われているフォントと同じものが、アルバム『世界観』の歌詞カードに用いられてる。また、小説は縦書きであるため、歌詞カードは徹底して横書きになっている。
クリープハイプは、フェス文化の中で単に「セックスしよう」を言うためだけに集まった軽音楽部系大学生に消費されるのを嫌がってきた。単に音楽を音だけで楽しむのではなく、ちゃんと歌詞自体も聴いてほしい、理解してほしいという思いを強く持ったバンドである。だからこそ、このアルバムでは、歌詞カードも小説のようにちゃんと見てほしい、読んでほしいという意味が込められている気がする。
自由なライブDVDのジャケット(ドレスコーズ)
次に紹介するのは、ドレスコーズのDVD作品『SWEET HAPPENING』である。この作品はライブを収めたDVDである。ここでドレスコーズの基礎知識を振り返ると、毛皮のマリーズのフロントマンとして活躍していた志磨遼平が毛皮のマリーズ解散後に組んだバンドである。紆余曲折を経て、現在は一人でドレスコーズとして活動している。けれども、このバンドが特異なのは、ライブやアルバムごとにさまざまなアーティストを起用して作品を作り上げている点である。例えば、最新作では人間椅子の和嶋さんや凛として時雨のピエール中野が名を連ね、過去には元毛皮のマリーズの西くんやウエノコウジ、OKAMOTO'Sなどが起用されている。詳細は以下を参考にして頂きたい。
Members | ドレスコーズ[the dresscodes]オフィシャルサイト
さて、そんな 変幻自在なバンド、ドレスコーズのDVDもまた変幻自在である。これはクリアケースに数枚の写真やCDなどがバラバラに入っているというパッケージになっている。とても不安定な形である。しかしこれはドレスコーズの歴史を考えると、いつでも形を変えてきたドレスコーズそのものを表しているジャケットだと言える。
作品ではそのライブ単体しか表すことは出来なかったが、ジャケットとして歴史を含めて表現している良い例である。
CDには重さがある
当たり前のものかもしれないが、CDには重さがある。
一方、音楽には質量がない、データだからだ。そのCDの質量こそが音楽を所有している気分にさせてくれる。 そんな所有する欲求を満たしてくれる。実際、所有欲、マニア気質のある日本ではアメリカよりもCDがまだ売れている方だと言われている。
ただ近年、それだけではなく、音楽の枠だけでない作品を表す手段としてCDのパッケージや装丁が用いられている。
だからこそ、CDの作りをちゃんと見るべきだと思う。CDをアーティストのやりたいことがつまった作品として見ることこそがCDを買う理由だと私は考える。
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震災とシン・ゴジラと君の名は。
『シン・ゴジラ』や『君の名は。』がヒットしている。この二つの映画について震災という観点から考えてみる。(両映画のネタバレを含みますので、鑑賞後に読むとより良いと思います)
ゴジラという災害
『シン・ゴジラ』と震災についての議論は各所で行われている。そのため簡潔に述べる。この映画において、ゴジラは特に目的があるわけではなくただただ海から上陸して町を破壊する。ここでポイントなのは、目的がないということだ。例えば、宇宙戦争などであれば、宇宙人が地球を侵略して自分の土地にしようとするという目的がある。けれども、ゴジラにはそれがない。だから、ゴジラは、生物よりも自然に近い。つまり、ゴジラによる被害は自然災害とも言える。
また、別の側面から言うならば、海から侵入することで来る津波やゴジラ自体が原子力により動いていること、その後住民の測定によりゴジラの移動跡には放射線量が増加していることなど、このゴジラ災害が、東日本大震災と原発事故を意識していることは明らかである。この辺はそもそもゴジラというものが第5福竜丸の水爆実験により生まれたという話にも繋がるが、それはまた別の機会にする。
本題に入ると、この『シン・ゴジラ』では、主に国家単位でどう災害に対処するかが描かれている。つまり、国単位であるからこそ、エヴァのシンジ君の葛藤など人間描写よりも、国としてどう動くかのシステムが強調されている。そのために、人が亡くなるシーンをあまりにもドライに描きすぎているという批判もある。だが、国単位で災害を描くということに注力したと考えれば、納得できるストーリー展開だと思う。
君の名は。と災害
『君の名は。』における災害とは、糸守町に彗星が落下したことである。
この彗星落下について多くは描かれていないが、甚大な被害を与え、町民の殆どが亡くなったことが語られる。また、その1200年前にも彗星が落ちることで今の湖が出来たことが作品内で示唆されている。ちなみにこの際には、大火事を起こすことで町民を強制的に避難させたことが映画内の宮水一葉のセリフから考えられる。これによって、祭りの起源を示す書類は焼けてしまったという汚点だけが後世に語り継がれているが。
さて、本題にはいろう。『君の名は。』は先のゴジラとは異なり、地方自治体単位での災害について捉えている。
しかし、ここでは地方自治体の限界が示されている。それは、ラストのシーンにおいて、三葉たちにより爆発事故のための避難放送が町内に流されるのだが、祭りの中で誰一人逃げないということに象徴される。
つまり、町内放送で、人は避難しないのだ。
東日本大震災において、避難勧告が出たにも関わらず避難せずに自宅にとどまった人が多くいたと報告されている。一方で、原発事故において、政府発表がないにも変わらず口コミによる情報だけで自宅から避難した人は多くいた。これは、国からの避難指示だけではなく、口コミや隣人からの情報という目に見えやすい形での情報によるもので人は動くということを示している。
『君の名は。』において、町民を全て小学校の校庭に避難させるために取られた方法は、避難訓練とウソをつくことである。
避難訓練というのは、100年に一度の災害よりも圧倒的に僕らにとっては身近な存在である。だから、実際の災害よりも避難訓練と知らせる方が避難してくれるという、矛盾が生じてしまう。この点は今後、防災を考える上でとても重要な観点である。
震災と物語
『シン・ゴジラ』ではゴジラ自体が、『君の名は。』では彗星墜落が災害として描かれている。災害において、大きく分けると二つの次元で物事が起こる。国家単位でどう処理していくかというマクロ的な面と、人々をどう避難させるかというミクロ的な面である。このマクロとミクロを描いた映画が、それぞれ『シン・ゴジラ』と『君の名は。』であると考える。
震災をきっかけに生まれた映画や物は多くある。良い物も悪いものの存在する。それは戦争にも同じことが言える。戦争があったからこそ現在の科学の進歩があったといっても過言ではないくらいの影響力があった。だからこそ、311も911も単に悲観するだけではなく、何かを見つけられるような経験になればいいのではないかと思う。
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『君の名は。』は新海誠作品のNAVERまとめだ
新海誠監督作品「君の名は。」を見てきた。感想としては、面白かったとは思うけど、、、というのが本音である。これについて考察というか批評を書く。
この記事はネタバレを含みます。
『君の名は。』は、新海誠作品のNAVERまとめだ
『君の名は。』を一言で言うならば、秒速5センチメートルや言の葉の庭、星を追う子供などの過去の新海誠作品の要素を組み合わせた、NAVERまとめのような作品だ。
NAVERまとめというのは、言わずもがなさまざまなものをユーザーがまとめているサイトである。しかし、まとめるというのは、対象とするものをキャッチーに分かりやすく組み直すことを必要とする。例えば、「よくこれから流行る邦楽ロックバンド!(随時更新)」などのコンテンツでは、各バンドの紹介が数行の文章とyoutubeの雑な構成で成り立っている。
このようなNAVERまとめには、一目で誰もがわかる良さを書いてある。
しかし、わかりやすくしようとするあまりほとんど本質が抜け落ちていることもあり、結局本当にいいところは何もわからない入門にしかなりえないことが欠点としてはある。
以上の意味で、『君の名は。』は、まさにこの良い面も悪い面も持ち合わせたNAVERまとめ的な作品だと言える。
より具体的に言えば、星を追う子どものようなジブリ的な風景と秒速5センチメートルのようなリアルな新宿を掛けあわせた世界観で構成され、展開は秒速5センチメートルそのものだ。まさにラストの数分間は、改札、電車、新宿、空、など、もはや秒速5センチメートルの世界そのものである。
しかし、一点だけ異なる点がある。それは、最後に主人公とヒロインが出会う事ができる点である。
RADWIMPSファンに向けた川村元気の策略
この作品を語る上で欠かせない人物は川村元気であろう。彼は、「電車男」や湊かなえ原作「告白」の映画化、「モテキ」のドラマ化の企画などを手掛けてきたプロデューサーである。また、「世界から猫が消えたなら」などの著者でもある。川村元気が、『君の名は。』では、企画・プロデュースに入っている。
ここで、今までの新海誠の問題点を考える。彼の作品は圧倒的な絵の綺麗さとその切ないストーリー性で一部からは高く評価されてきたが、宮崎駿や吾郎、細田守より確実に知名度は劣っていた。それは彼自身の過去作に一般受けするような作品がなかったことがある。
この問題を川村元気はRADWIMPSとぶつけることで解消しようとした。つまり、RADWIMPSのファン層を新海誠ワールドに取り込もうとしたのだ。
本質的にRADWIMPSと新海誠は似ている。けれども、両者のファンの多くが抱く恋愛に対するイメージは大きく異なる。
新海誠は、秒速5センチメートルに代表されるような内性的な、ある種気持ち悪いと批判されがちな恋愛を描いてきた。しかもその結末が結ばれないものが多い。一方で、RADWIMPSの多くのファンに受ける恋愛というのは、強く望めば叶うというような思想に基づいている。もちろんそうでないRADWIMPSの魅力を理解しているファンも多くいるし、RADWIMPS自体は五月の蠅など必ずしも正常ではない愛を書いているのだが。
その流れを読み取った川村元気は、この『君の名は。』の結末を 二人を出会わせることにした。つまり、秒速5センチメートルで振り返らなかった、どこを探してもいなかった明里と貴樹くんは物語を変えて、この作品で出会っている。それもある意味で前前前世のような輪廻転生的な世界観にまとまるとも思う。
けれども、これは新海誠の世界観ではなく、RADのファンが望むと見込まれた世界観である。
つまり、RADファンが好きそうな展開として2人の思いを昇華させた。これにより、ハッピーエンドでまとまりの良い物語になり、秒速や言の花の庭のような見終わった後のもやもやは漂白された。しかし、そのもやもやこそが新海誠の良さの一つだと考えているからこそ、冒頭に書いた「面白かったけど、、、」につながる。
タイトル「君の名は。」の意味
このブログの過去記事で、以下のように述べている。
「君の名は。」は続きがありそうでないということを示唆しているのではないだろうか。つまり「君の名は~」のように続きがあるのではなく、そこで強制的に中断させられているようなイメージを表現したのではないかと思う。
引用元:http://machidaneko1.hateblo.jp/entry/2016/07/07/215145
改めて、見終わった後にこの句読点について考える。まず、本作中で夢から醒めると三葉と瀧はお互いの名前や記憶を忘れてしまうからこそ、君の名は。とそこで文章が終わりを迎えているというものがある。また、ここからは勝手な妄想なのだが、二人は名前を思い出せなくても良いというような新海誠の意思を感じざるを得ない気がするのは僕だけだろうか。
『君の名は。』という作品は、川村元気によって、新海誠ファンが作った映画のような新海誠の売れる要素を分かった上で、RADのファンに受け入れられる、売れるように編集して作っている。素材が良い物を再編集し、方向調整まで行っているのだからヒットするに決まっている。では、過去の総集編、総まとめとして『君の名は。』を作ってしまった新海誠は、次の作品はどう作るのか。それに期待が高まるばかりである。