流行りの音楽、追うリスナー
ファッションミュージック、簡単楽しい
キュウソの歌詞の中である言葉だ。
英単語Fashionには流行という意味がある。つまり、ファッションミュージックとは流行の音楽。テレビ的に商業的に成功している音楽のことを指している。ただ、そうではない邦楽ロックと呼ばれるジャンルも一般に浸透してきた。そのような音楽文化の大衆化について考える。
新参 VS.古参
では、軽薄な音楽が増えてきた原因は何か。まず、リスナー側から見てみる。
SNS以前のリスナーは、自分の音楽の趣味はとてもマイナーで自分の周りにはほぼいないのが当たり前だった。いたらその人と意気投合して結婚に至る!くらいレアだった。だからこそ、自身の趣味について自分から話題にすることはありえなかった。けれども、SNSの登場により意外と同じ音楽の趣味の人が多くいるということに気がついた。
これが、SNS以前と以降のリスナーの間に揉め事が起きる原因である。
SNS以降のリスナーは、マイナーな趣味だから日陰に生きていくと思うのではなく、メジャーな話だと思って話をするようになる。
だから、古いファンと新しいファンは価値観が異なりぶつかる。この古参VS新参のような話は決して音楽だけでなく、アニメやゲームなどさまざまなオタク文化と称されるものにも当てはまる。
音楽を聴く=フェスに行く?
ここ数年で、音楽を聴くという行為事態が変化している。今、音楽を聴くのにかかるコストが限りなく0に近づいてきてしまっている。かつて違法でアップロードされていたyoutube音源は、今や公式がMVをアップロードするようになった。それにより、youtubeをまるでラジオのように使えるアプリがアプリのダウンロードランキングの上位になってきた。
だから、音楽業界も音源ではなくフェスで稼ごうとしている。
音楽フェスはメジャーになってきた。数年前まではフェスなんて単語自体がごく限られた人のものだったのに、今やフェスに行くためのファッション特集が組まれるようになってきた。フェスが人気になったのは音楽とは関係ないと考える。フェスはお祭りの延長線上にある。盆踊りの曲調や歌詞に誰も見向きしないのと同じで、フェスの音楽もそうなりつつある。
けれどもだからフェスばかりになるのはおかしい。フェスは映画の予告編なのだ。
フェスだけでアーティストを語るということは、youtubeで予告編を見て感想を言っているようなものなのだ。だが、実際にそういう人が多すぎる。
最後に、少し話はずれるが、mol-74というバンドのインタビューを紹介する。スリーピースバンドであり、綺麗なファルセットによって繊細な音楽をやっている。彼らの音楽は音楽性がとても高い。けれどもフェスに行くようなロックキッズと呼ばれる層にはあまり伝わらない。このボーカルがインタビューで以下の様なことを述べている。
今って「一部の音楽しか聴かない」みたいな感じが強すぎて、窮屈な感じがするんですよ。それはもともと自分も邦楽しか聴いてなかったからこそわかることでもあって、でももっと素晴らしい音楽っていっぱいあるから、それを知ってほしい。だから、「自分らがよけりゃ、それでいい」じゃなくて、シーン全体のことを考える必要があると思ってます。
音楽はこの先、きっと聴き方、関わり方が変化するだろう。けれども、良質な音楽を聴くための良質なリスナーでありたい。
ハチクロから3月のライオンへの変化とは?
恋愛マンガだけじゃないハチクロ
ハチミツとクローバーは、美大を舞台とした学生達の生活を中心としたマンガである。主人公の竹本祐太は、ある日大学で花本はぐみに一目惚れをする。また、竹本くんと同じアパートに住む留年している先輩森田忍も花本はぐみに恋をする。というストーリーだ。こうあらすじを書くと、ありふれた月9ドラマのような感じがする。けれども、恋愛ドラマだから面白いというのは、恋愛ドラマならなんでも面白いというようなものだ。
羽海野チカのマンガではナレーター的に主人公に自分の心情を語らせている。独白というか、分かりやすく言えばひとりごとだ。それをその時の感情としてではなく、俯瞰的に書かれている。
人が恋に落ちる瞬間を 初めて見てしまった
ハチミツとクローバー 真山のセリフより
このセリフを話す真山は、今よりも冷静で少し距離をおいて物事を見ている。このセリフの末尾が過去形であることから読み取れる。この視点は、読者の視点でもあり、一歩弾いた目線で物語を見ているセリフだ。
恋は盲目という言葉が示すように、恋愛は個人的なものである。だが、このハチクロではそれを「ボクとキミの物語」で終わらせるのではなく、「ボクとキミの物語」を未来のボクが見る形式で進めることでより多層的な物語構造にしている。
ご近所マンガとしての3月のライオン
三月のライオンはノスタルジーあふれる月島がを舞台とした、棋士の少年、桐山零とその周りで起きる人間模様について描いたマンガだ。そこに3姉妹が登場する。この3姉妹の住む家に零は出入りすることで、桐山零自身が成長する。
舞台である月島は下町と呼ばれる濃密な人間関係が今も残る地域である。隣人の助け合いを描いた他の作品としてはAlways三丁目の夕日があるが、このマンガ内ではそのような助け合いは出てこない。つまり、ただ昭和ノスタルジーとして隣人の助け合いを描くのではなく、仲の良い人は助けるという極めて現代的な隣人愛を示している。
具体的に言えば、3月のライオンの前半は、零くんは3姉妹に助けられることによって、擬似家族になっていく物語なのだ。ここで言う擬似家族とは、実際に血縁関係がないが、恋人ではなく家族のような集合体のことである。朝ドラなどで見られる隣人愛などもそれに当たる。参考までに他の擬似家族作品を上げると、マンガならうさぎドロップやよつばと!、ドラマなら奇跡の人や多くの朝ドラなどもこれに該当する。
家族よりも家族的!?「疑似家族」を描いた作品 - NAVER まとめ
ハチクロから3月のライオン、そして
ハチクロでは、竹本くんとはぐちゃんとの恋愛を中心に描かれていた。3月のライオンでは、三姉妹と零くんの擬似家族的な側面が強調されている。
つまり、羽海野チカは、ハチクロの「ボクとキミの閉じられた恋愛観」から、3月のライオンの集合として愛し愛されるような「擬似家族的なつながり」を描くようになったのだ。
よく、羽海野チカのマンガは説教臭いと言われることがある。この漫画を批判するということは羽海野チカの人格を否定することにつながりかねない。それくらい自我が出ている。だとすれば、今まで書いてきた恋愛から擬似家族への変化は本人の心境の変化であるのでは?と思う。
現在、3月のライオンでは、零くんと三姉妹の次女との恋愛模様が描かれている。この擬似家族内部での恋愛というのは、家族内での恋愛が近親相姦として排除されていたようになかなか描かれない。この辺をいかにうまく描くかが、今後の話の展開に大きく関係してくる。
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なぜ、ツアーファイナルは東京でなくなったのか
ワンマンライブのファイナルといえば東京だった。
ワンマンライブに限らず、多くのサーキット形式のライブイベントのトリが東京だった。例えば、スペースシャワーTVが毎年行っている列伝ツアーでは、これから売れそうな若手バンドを青田買いして、一緒にツアーを回る。その過程で成長していき、第円団を東京で迎えるというストーリーがある。
けれども、最近、ワンマンライブのファイナル公演が東京でなくなってきた。
例えば、クリープハイプ。2012年のツアー「つま先はその先へ」のファイナルは赤坂BLITZであった。だが、2016年のツアー「たぶんちょうど、そんな感じ」ではファイナルはなんばHatchである。また、今度開催されるツアーの最終は仙台PITである。
この他にも多くのバンドが、東京でツアーファイナルを迎えなくなってきた。それはなぜか?
まだ、音楽のために上京してるの?
音楽のために上京する、と言い残して田舎を出るバンドマンが多くいた。東京は情報が多く集まり、刺激を受けやすい場所だったからだ。
数十年前までは、ドラムの演奏方法やスタジオの使い方さえも地元の先輩や兄弟からしか教わる方法がなかった。だから、音楽は生まれ持った家系や環境に左右される特権的なものだった。
けれども、それがYoutubeなどの動画サイトにより大きく変わる。
Youtubeやニコニコ動画の弾いてみた、によって人が演奏している様を見るコストが格段に下がった。つまりかつてのようによい先輩に恵まれたバンドはうまくいき、そうでないバンドはうまくいかない、環境に左右される時代は終焉を迎えた。
だからこそ、今、東京に上京する必要はなくなった。そして、Youtubeはバンドが地方の小さなコミュニティーで王様でいることを許さないようになった。その結果、バンドの演奏レベルは格段に底上げされた。
ご当地ゆるキャラみたいなバンド
東京へあこがれを持つ必要性がなくなってきていることを先ほどまで見てきた。
今のバンドのトレンドは、ご当地ゆるキャラのように地方を背負って活動するご当地バンドだ。「西宮のキュウソネコカミです」「八王子のグッドモーニングアメリカです」「北浦和のテレフォンズです」などなど、あげればキリがない。
このきっかけは東日本大震災だ。あの震災をきっかけに、地元のコミュニティーや身近な人を大切にする気持ちをいやというほど認識させられた。「絆」というフレーズはその年の流行語にもなった。
だから、仙台出身であることを大きく売りだして復興のために活動を行うケースが増えた。それを境にして、地方を背負って活動するバンドが増えたのだ。この流れはバンドにかぎらずマイルドヤンキーなどが増加していることからも言える。
なぜ、ツアーファイナルは東京でなくなったのか?
ここまで、東京へあこがれを持つ必要性がなくなり、地方を背負うバンドが増えていた流れを見てきた。では、なぜツアーファイナルを東京で行わなくなってきたのか?それは二つある。
一つは、東京の価値の低下により東京のツアーファイナルにこだわらなくて良くなったから。
二つ目は、自身の活動の拠点である地方都市でツアーファイナルを行うことで、地元に根ざしたバンドであるというアイデンティティーを得ることができるからである。
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モテるための音楽、モテないバンド
バンドマンはチャラい。
「バンドを始めたきっかけ?あぁ、モテるためです」
よくバンドマンがこう答える。けれども、果たしてバンドはモテるのだろうか?
モテるための音楽
結論を先に言えば、モテるために音楽をやるならEXILEに入ることだ。確実にモテる。おそらくきっと多分絶対モテる。
サブカル界隈においてモテるに関係する作品といえば、まず思い浮かぶのが『モテキ』だ。
あれはさえないサブカル野郎の藤本幸雄がある日突然モテはじめる話だ。ただ、あの作品の中でヒロインとの出会い方は、空から降ってくるわけでもなければ、曲がり角でぶつかるわけでもない。何てことはない、幼馴染や中学の同級生、以前の会社の同僚など今まで知り合いだった人からモテるようになる。
つまり、藤本幸雄はいくつかのモテるための種を持っていて、それが同タイミングで発芽したのだ。そこがあのマンガのリアルさであるし、共感できるポイントだ。
モテキ的なモテ方とは、現実的に考えればハーレムを築くことではなく、以前から友達ないし知り合いから好意を抱かれることなのだ。
ここがEXILE的なモテ方とは異なる。
つまり、あれはメジャーになるからこそ、自身のブランド力が上がり、漠然としてモテるようになり、結果として可愛い女の子に出会える確率が上がるという仕組みだ。広告会社の人がモテるとかも同じエグザイル理論だ。
バンドマンはかっこ良くないけどモテる。
さて、ブランド力の向上によりモテるEXILE理論については見てきた。けれどもこの話は多くのバンドマンには当てはまらない。
では、最初のバンドマンが言っていた「モテたい」とは、なにか?
モテたいから音楽を始めるならモテる対象はファンだ。ただ、このファンというのは彼らが好きなのではなく、彼らの音楽を含めて好きなのだ。というよりも、むしろ演奏してる姿が好きなのだ。
基本的に音楽が評価されているバンドマンは容姿が決して淡麗ではない。わーきゃー、かっこいい、というのはバンドマンの容姿に対してはほぼありえない。もし、そうであるならば、バンドをやらないでモデルをやるべきだ、タレントになるべきだ。
川谷絵音がニュースに取り上げられた中で、あんなモヤシみたいなのどこがいいのかわからないという意見を2chやTwitterでよく見た。
そのモヤシみたいというのは全くもって間違ってない。だか、それでも僕が川谷絵音はかっこいいと思うのは、彼の音楽を知っているからだ。演奏する姿を知っているからだ。つまり、ネットの彼ら彼女らのディスは的外れなのだ。というか合ってるが何も本質をついてない。
アーティストはアーティストでなければカッコ良くない。
歌詞に意味なんていらない?
「どっかの司会者言っていた 歌詞に意味なんて要らない」
キュウソネコカミのMEGA SHAKE IT!の歌詞の一節だ。この元ネタは、ヨルタモリでタモリが言ったことなのだが、果たして本当に、歌詞に意味はいらない?
意味がない側の代表としてindigo la EndとPeople in the box、ある側の代表として西野カナで考えてみる。
歌詞に意味なんていらない、のか?
歌詞に意味なんていらないということは、曲の中での言葉は音として認識され、意味を持たないということだ。洋楽などその人の母国語でない音楽はそういう聴き方になる。言葉もギターやドラムと同じように楽器として知覚されるのだ。例えば、歌詞の意味が全くわからないオマールスレイマンの楽曲が分かりやすい。全く意味がわからないが、なぜか面白いしテンションが上がる曲たちである。
歌詞は言葉からできる
さて、日本語で意味が無い歌詞とはどういうことか。最も代表的なのはきゃりーぱみゅぱみゅだが、ここではindigo la End、People in the boxから考える。
indigo la Endでは、初期の楽曲では意味が無いように思える単語が用いられている。ジョン・カーティスではサビで、こう歌われる。
新世紀の人間 サイボーグみたいだ
dislike an apple? そうだよ
ライブのMCでも本人が言っていたが、意味が分からない。けれども、ここから、川谷絵音がPeople in the boxなどの歌詞を言葉に解体してきたバンドの影響を受けていることが読み取れる。indigo la Endについては以前も違う切り口書いたので参考までに
indigo la Endはメジャーになれるのか? - サブカル備忘録
People in the boxは、今も昔もずっと歌詞の意味が分からない。いや、正確に言えば、歌詞も言葉なので単語としての意味は存在するが、曲を通して筋の通った意味が存在しない。彼らは、言葉によって断片的に形成されたイメージを積み重ねることで世界観を構築している。
She Hates Decemberのサビはこう続く
壊したくない?壊したい? 棺 白い床が廻る
She Hates December 月が消えた僕らだ
満ちて 欠けて 擦り切れるのは
「棺」は死の象徴であり、冷たい感覚がする。「月が消えた」も同じく死を暗示するような単語であるが、月は生と死のようにオンオフではない。だからこそ、次に満ちて欠けてという変化について歌っている。
と、歌詞を解釈してみても、言葉の並びの説明になるだけで、結局、歌詞の意味についてはわからない。だが、言葉によって意味を積み上げるというある意味最も基本的な言葉の使い方をしている。だから、Peopleは、どんなバンドより、歌詞が言葉から成り立つことを考えているバンドだとか考えている。
- アーティスト: people in the box
- 出版社/メーカー: Independent Label Council Japan(IND/DAS)(M)
- 発売日: 2007/06/06
- メディア: CD
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歌詞に意味がある、ないとは?
歌詞が大切にされているアーティストといば、代表は西野カナだと思っている。
「会いたくて、会いたくて、ふるえる」
この言葉を知っている人はかなり多くいるだろう。けれども、この言葉のメロディーを歌える人は言葉を知っている人に比べると一気に少なくなるはずだ。つまり、西野カナは歌詞が有名になるアーティストなのだ。
歌詞が有名になるとは、もちろんインパクトのある言葉ということもある。この会いたくて~は恐らくその部類であろう。けれども、ラブソングの多くは歌詞に意味があると言われる。この歌詞に意味があることのは、歌詞の言葉に共感することと同義なのだ。
歌詞に意味がない側のPeopleは言葉からイメージを与えている。歌詞に意味がある側の西野カナを代表とするラブソングは言葉によって共感を与えている。
両者のアーティストについて意味という切り口で考えると異なるが、実は本質的には似ているのかもしれない。