サブカル備忘録

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『君の名は。』は新海誠作品のNAVERまとめだ

新海誠監督作品「君の名は。」を見てきた。感想としては、面白かったとは思うけど、、、というのが本音である。これについて考察というか批評を書く。

この記事はネタバレを含みます。

 

 

 

君の名は。』は、新海誠作品のNAVERまとめだ

君の名は。』を一言で言うならば、秒速5センチメートル言の葉の庭、星を追う子供などの過去の新海誠作品の要素を組み合わせた、NAVERまとめのような作品だ。
NAVERまとめというのは、言わずもがなさまざまなものをユーザーがまとめているサイトである。しかし、まとめるというのは、対象とするものをキャッチーに分かりやすく組み直すことを必要とする。例えば、「よくこれから流行る邦楽ロックバンド!(随時更新)」などのコンテンツでは、各バンドの紹介が数行の文章とyoutubeの雑な構成で成り立っている。

 

このようなNAVERまとめには、一目で誰もがわかる良さを書いてある。

しかし、わかりやすくしようとするあまりほとんど本質が抜け落ちていることもあり、結局本当にいいところは何もわからない入門にしかなりえないことが欠点としてはある。

以上の意味で、君の名は。』は、まさにこの良い面も悪い面も持ち合わせたNAVERまとめ的な作品だと言える。

より具体的に言えば、星を追う子どものようなジブリ的な風景と秒速5センチメートルのようなリアルな新宿を掛けあわせた世界観で構成され、展開は秒速5センチメートルそのものだ。まさにラストの数分間は、改札、電車、新宿、空、など、もはや秒速5センチメートルの世界そのものである。

しかし、一点だけ異なる点がある。それは、最後に主人公とヒロインが出会う事ができる点である。

 

RADWIMPSファンに向けた川村元気の策略

この作品を語る上で欠かせない人物は川村元気であろう。彼は、「電車男」や湊かなえ原作「告白」の映画化、「モテキ」のドラマ化の企画などを手掛けてきたプロデューサーである。また、「世界から猫が消えたなら」などの著者でもある。川村元気が、『君の名は。』では、企画・プロデュースに入っている。

世界から猫が消えたなら

世界から猫が消えたなら

 

ここで、今までの新海誠の問題点を考える。彼の作品は圧倒的な絵の綺麗さとその切ないストーリー性で一部からは高く評価されてきたが、宮崎駿や吾郎、細田守より確実に知名度は劣っていた。それは彼自身の過去作に一般受けするような作品がなかったことがある。

 この問題を川村元気RADWIMPSとぶつけることで解消しようとした。つまり、RADWIMPSのファン層を新海誠ワールドに取り込もうとしたのだ。

本質的にRADWIMPS新海誠は似ている。けれども、両者のファンの多くが抱く恋愛に対するイメージは大きく異なる。

新海誠は、秒速5センチメートルに代表されるような内性的な、ある種気持ち悪いと批判されがちな恋愛を描いてきた。しかもその結末が結ばれないものが多い。一方で、RADWIMPSの多くのファンに受ける恋愛というのは、強く望めば叶うというような思想に基づいている。もちろんそうでないRADWIMPSの魅力を理解しているファンも多くいるし、RADWIMPS自体は五月の蠅など必ずしも正常ではない愛を書いているのだが。

その流れを読み取った川村元気は、この『君の名は。』の結末を 二人を出会わせることにした。つまり、秒速5センチメートルで振り返らなかった、どこを探してもいなかった明里と貴樹くんは物語を変えて、この作品で出会っている。それもある意味で前前前世のような輪廻転生的な世界観にまとまるとも思う。

けれども、これは新海誠の世界観ではなく、RADのファンが望むと見込まれた世界観である。

つまり、RADファンが好きそうな展開として2人の思いを昇華させた。これにより、ハッピーエンドでまとまりの良い物語になり、秒速や言の花の庭のような見終わった後のもやもやは漂白された。しかし、そのもやもやこそが新海誠の良さの一つだと考えているからこそ、冒頭に書いた「面白かったけど、、、」につながる。

 

タイトル「君の名は。」の意味

このブログの過去記事で、以下のように述べている。

  「君の名は。」は続きがありそうでないということを示唆しているのではないだろうか。つまり「君の名は~」のように続きがあるのではなく、そこで強制的に中断させられているようなイメージを表現したのではないかと思う。

引用元:http://machidaneko1.hateblo.jp/entry/2016/07/07/215145

 

改めて、見終わった後にこの句読点について考える。まず、本作中で夢から醒めると三葉と瀧はお互いの名前や記憶を忘れてしまうからこそ、君の名は。とそこで文章が終わりを迎えているというものがある。また、ここからは勝手な妄想なのだが、二人は名前を思い出せなくても良いというような新海誠の意思を感じざるを得ない気がするのは僕だけだろうか。

 

君の名は。』という作品は、川村元気によって、新海誠ファンが作った映画のような新海誠の売れる要素を分かった上で、RADのファンに受け入れられる、売れるように編集して作っている。素材が良い物を再編集し、方向調整まで行っているのだからヒットするに決まっている。では、過去の総集編、総まとめとして『君の名は。』を作ってしまった新海誠は、次の作品はどう作るのか。それに期待が高まるばかりである。

流行りの音楽、追うリスナー

ファッションミュージック、簡単楽しい

キュウソの歌詞の中である言葉だ。

英単語Fashionには流行という意味がある。つまり、ファッションミュージックとは流行の音楽。テレビ的に商業的に成功している音楽のことを指している。ただ、そうではない邦楽ロックと呼ばれるジャンルも一般に浸透してきた。そのような音楽文化の大衆化について考える。

 

 

ウィーアーインディーズバンド!!

ウィーアーインディーズバンド!!

 

 

新参 VS.古参

では、軽薄な音楽が増えてきた原因は何か。まず、リスナー側から見てみる。

これにはTwitterなどSNSの影響が多く見られる。

SNS以前のリスナーは、自分の音楽の趣味はとてもマイナーで自分の周りにはほぼいないのが当たり前だった。いたらその人と意気投合して結婚に至る!くらいレアだった。だからこそ、自身の趣味について自分から話題にすることはありえなかった。けれども、SNSの登場により意外と同じ音楽の趣味の人が多くいるということに気がついた。

これが、SNS以前と以降のリスナーの間に揉め事が起きる原因である。

SNS以降のリスナーは、マイナーな趣味だから日陰に生きていくと思うのではなく、メジャーな話だと思って話をするようになる。

だから、古いファンと新しいファンは価値観が異なりぶつかる。この古参VS新参のような話は決して音楽だけでなく、アニメやゲームなどさまざまなオタク文化と称されるものにも当てはまる。

 

音楽を聴く=フェスに行く?

ここ数年で、音楽を聴くという行為事態が変化している。今、音楽を聴くのにかかるコストが限りなく0に近づいてきてしまっている。かつて違法でアップロードされていたyoutube音源は、今や公式がMVをアップロードするようになった。それにより、youtubeをまるでラジオのように使えるアプリがアプリのダウンロードランキングの上位になってきた。

 

だから、音楽業界も音源ではなくフェスで稼ごうとしている。

音楽フェスはメジャーになってきた。数年前まではフェスなんて単語自体がごく限られた人のものだったのに、今やフェスに行くためのファッション特集が組まれるようになってきた。フェスが人気になったのは音楽とは関係ないと考える。フェスはお祭りの延長線上にある。盆踊りの曲調や歌詞に誰も見向きしないのと同じで、フェスの音楽もそうなりつつある。

けれどもだからフェスばかりになるのはおかしい。フェスは映画の予告編なのだ。

フェスだけでアーティストを語るということは、youtubeで予告編を見て感想を言っているようなものなのだ。だが、実際にそういう人が多すぎる。

 

 

最後に、少し話はずれるが、mol-74というバンドのインタビューを紹介する。スリーピースバンドであり、綺麗なファルセットによって繊細な音楽をやっている。彼らの音楽は音楽性がとても高い。けれどもフェスに行くようなロックキッズと呼ばれる層にはあまり伝わらない。このボーカルがインタビューで以下の様なことを述べている。

今って「一部の音楽しか聴かない」みたいな感じが強すぎて、窮屈な感じがするんですよ。それはもともと自分も邦楽しか聴いてなかったからこそわかることでもあって、でももっと素晴らしい音楽っていっぱいあるから、それを知ってほしい。だから、「自分らがよけりゃ、それでいい」じゃなくて、シーン全体のことを考える必要があると思ってます。

 音楽はこの先、きっと聴き方、関わり方が変化するだろう。けれども、良質な音楽を聴くための良質なリスナーでありたい。

kanki

kanki

 

ハチクロから3月のライオンへの変化とは?

 

 

恋愛マンガだけじゃないハチクロ

 ハチミツとクローバーは、美大を舞台とした学生達の生活を中心としたマンガである。主人公の竹本祐太は、ある日大学で花本はぐみに一目惚れをする。また、竹本くんと同じアパートに住む留年している先輩森田忍も花本はぐみに恋をする。というストーリーだ。こうあらすじを書くと、ありふれた月9ドラマのような感じがする。けれども、恋愛ドラマだから面白いというのは、恋愛ドラマならなんでも面白いというようなものだ。

ハチミツとクローバー (1) (クイーンズコミックス―ヤングユー)

羽海野チカのマンガではナレーター的に主人公に自分の心情を語らせている。独白というか、分かりやすく言えばひとりごとだ。それをその時の感情としてではなく、俯瞰的に書かれている。

人が恋に落ちる瞬間を 初めて見てしまった

 ハチミツとクローバー 真山のセリフより

このセリフを話す真山は、今よりも冷静で少し距離をおいて物事を見ている。このセリフの末尾が過去形であることから読み取れる。この視点は、読者の視点でもあり、一歩弾いた目線で物語を見ているセリフだ。

恋は盲目という言葉が示すように、恋愛は個人的なものである。だが、このハチクロではそれを「ボクとキミの物語」で終わらせるのではなく、「ボクとキミの物語」を未来のボクが見る形式で進めることでより多層的な物語構造にしている。

 

ご近所マンガとしての3月のライオン

三月のライオンはノスタルジーあふれる月島がを舞台とした、棋士の少年、桐山零とその周りで起きる人間模様について描いたマンガだ。そこに3姉妹が登場する。この3姉妹の住む家に零は出入りすることで、桐山零自身が成長する。

3月のライオン 11 (ジェッツコミックス)

舞台である月島は下町と呼ばれる濃密な人間関係が今も残る地域である。隣人の助け合いを描いた他の作品としてはAlways三丁目の夕日があるが、このマンガ内ではそのような助け合いは出てこない。つまり、ただ昭和ノスタルジーとして隣人の助け合いを描くのではなく、仲の良い人は助けるという極めて現代的な隣人愛を示している。

具体的に言えば、3月のライオンの前半は、零くんは3姉妹に助けられることによって、擬似家族になっていく物語なのだ。ここで言う擬似家族とは、実際に血縁関係がないが、恋人ではなく家族のような集合体のことである。朝ドラなどで見られる隣人愛などもそれに当たる。参考までに他の擬似家族作品を上げると、マンガならうさぎドロップよつばと!、ドラマなら奇跡の人や多くの朝ドラなどもこれに該当する。

家族よりも家族的!?「疑似家族」を描いた作品 - NAVER まとめ

 

ハチクロから3月のライオン、そして

ハチクロでは、竹本くんとはぐちゃんとの恋愛を中心に描かれていた。3月のライオンでは、三姉妹と零くんの擬似家族的な側面が強調されている。

つまり、羽海野チカは、ハチクロの「ボクとキミの閉じられた恋愛観」から、3月のライオンの集合として愛し愛されるような「擬似家族的なつながり」を描くようになったのだ。

 

よく、羽海野チカのマンガは説教臭いと言われることがある。この漫画を批判するということは羽海野チカの人格を否定することにつながりかねない。それくらい自我が出ている。だとすれば、今まで書いてきた恋愛から擬似家族への変化は本人の心境の変化であるのでは?と思う。

 

現在、3月のライオンでは、零くんと三姉妹の次女との恋愛模様が描かれている。この擬似家族内部での恋愛というのは、家族内での恋愛が近親相姦として排除されていたようになかなか描かれない。この辺をいかにうまく描くかが、今後の話の展開に大きく関係してくる。

 

3月のライオン 12 (ヤングアニマルコミックス)
 

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なぜ、ツアーファイナルは東京でなくなったのか

ワンマンライブのファイナルといえば東京だった。

ワンマンライブに限らず、多くのサーキット形式のライブイベントのトリが東京だった。例えば、スペースシャワーTVが毎年行っている列伝ツアーでは、これから売れそうな若手バンドを青田買いして、一緒にツアーを回る。その過程で成長していき、第円団を東京で迎えるというストーリーがある。

けれども、最近、ワンマンライブのファイナル公演が東京でなくなってきた。

例えば、クリープハイプ。2012年のツアー「つま先はその先へ」のファイナルは赤坂BLITZであった。だが、2016年のツアー「たぶんちょうど、そんな感じ」ではファイナルはなんばHatchである。また、今度開催されるツアーの最終は仙台PITである。

この他にも多くのバンドが、東京でツアーファイナルを迎えなくなってきた。それはなぜか?

 

 

まだ、音楽のために上京してるの?

音楽のために上京する、と言い残して田舎を出るバンドマンが多くいた。東京は情報が多く集まり、刺激を受けやすい場所だったからだ。

数十年前までは、ドラムの演奏方法やスタジオの使い方さえも地元の先輩や兄弟からしか教わる方法がなかった。だから、音楽生まれ持った家系や環境に左右される特権的なものだった。

けれども、それがYoutubeなどの動画サイトにより大きく変わる。

Youtubeニコニコ動画の弾いてみた、によって人が演奏している様を見るコストが格段に下がった。つまりかつてのようによい先輩に恵まれたバンドはうまくいき、そうでないバンドはうまくいかない、環境に左右される時代は終焉を迎えた。

 

だからこそ、今、東京に上京する必要はなくなった。そして、Youtubeはバンドが地方の小さなコミュニティーで王様でいることを許さないようになった。その結果、バンドの演奏レベルは格段に底上げされた。

 

ご当地ゆるキャラみたいなバンド

東京へあこがれを持つ必要性がなくなってきていることを先ほどまで見てきた。

今のバンドのトレンドは、ご当地ゆるキャラのように地方を背負って活動するご当地バンドだ。「西宮のキュウソネコカミです」「八王子のグッドモーニングアメリカです」「北浦和のテレフォンズです」などなど、あげればキリがない。

ウィーアーインディーズバンド!!

ウィーアーインディーズバンド!!

 

 

このきっかけは東日本大震災だ。あの震災をきっかけに、地元のコミュニティーや身近な人を大切にする気持ちをいやというほど認識させられた。「」というフレーズはその年の流行語にもなった。

だから、仙台出身であることを大きく売りだして復興のために活動を行うケースが増えた。それを境にして、地方を背負って活動するバンドが増えたのだ。この流れはバンドにかぎらずマイルドヤンキーなどが増加していることからも言える。

 

なぜ、ツアーファイナルは東京でなくなったのか?

ここまで、東京へあこがれを持つ必要性がなくなり、地方を背負うバンドが増えていた流れを見てきた。では、なぜツアーファイナルを東京で行わなくなってきたのか?それは二つある。

一つは、東京の価値の低下により東京のツアーファイナルにこだわらなくて良くなったから。

二つ目は、自身の活動の拠点である地方都市でツアーファイナルを行うことで、地元に根ざしたバンドであるというアイデンティティを得ることができるからである。

アイデンティティ

アイデンティティ

 

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モテるための音楽、モテないバンド

バンドマンはチャラい。

「バンドを始めたきっかけ?あぁ、モテるためです」

よくバンドマンがこう答える。けれども、果たしてバンドはモテるのだろうか?

 

 

モテるための音楽

結論を先に言えば、モテるために音楽をやるならEXILEに入ることだ。確実にモテる。おそらくきっと多分絶対モテる。

サブカル界隈においてモテるに関係する作品といえば、まず思い浮かぶのが『モテキ』だ。

あれはさえないサブカル野郎の藤本幸雄がある日突然モテはじめる話だ。ただ、あの作品の中でヒロインとの出会い方は、空から降ってくるわけでもなければ、曲がり角でぶつかるわけでもない。何てことはない、幼馴染や中学の同級生、以前の会社の同僚など今まで知り合いだった人からモテるようになる。

つまり、藤本幸雄はいくつかのモテるための種を持っていて、それが同タイミングで発芽したのだ。そこがあのマンガのリアルさであるし、共感できるポイントだ。

モテキ的なモテ方とは、現実的に考えればハーレムを築くことではなく、以前から友達ないし知り合いから好意を抱かれることなのだ。

モテキ(1) (イブニングコミックス)

モテキ(1) (イブニングコミックス)

 

ここがEXILE的なモテ方とは異なる。

つまり、あれはメジャーになるからこそ、自身のブランド力が上がり、漠然としてモテるようになり、結果として可愛い女の子に出会える確率が上がるという仕組みだ。広告会社の人がモテるとかも同じエグザイル理論だ。

 

バンドマンはかっこ良くないけどモテる。

さて、ブランド力の向上によりモテるEXILE理論については見てきた。けれどもこの話は多くのバンドマンには当てはまらない。

では、最初のバンドマンが言っていた「モテたい」とは、なにか?

モテたいから音楽を始めるならモテる対象はファンだ。ただ、このファンというのは彼らが好きなのではなく、彼らの音楽を含めて好きなのだ。というよりも、むしろ演奏してる姿が好きなのだ。

 

基本的に音楽が評価されているバンドマンは容姿が決して淡麗ではない。わーきゃー、かっこいい、というのはバンドマンの容姿に対してはほぼありえない。もし、そうであるならば、バンドをやらないでモデルをやるべきだ、タレントになるべきだ

 

川谷絵音がニュースに取り上げられた中で、あんなモヤシみたいなのどこがいいのかわからないという意見を2chTwitterでよく見た。

そのモヤシみたいというのは全くもって間違ってない。だか、それでも僕が川谷絵音はかっこいいと思うのは、彼の音楽を知っているからだ。演奏する姿を知っているからだ。つまり、ネットの彼ら彼女らのディスは的外れなのだ。というか合ってるが何も本質をついてない。

アーティストはアーティストでなければカッコ良くない。

 

モテキ

モテキ