GWに買い物しすぎていませんか?
GWにものを買いすぎていませんか?まちだねこです。
お店に行くとあれもこれもどれもそれもほしくなります。「無人島に行くなら何を持っていくか」という質問がよくあります。そのときに思いつくものはほんの数種類だけのはずです。
では、なぜこんなにも買い物してしまうのでしょうか?ものを買いすぎるとはどういうことでしょうか?そんなことを考えさせられる映画を紹介します。
『365日のシンプルライフ』あらすじ
この映画は、フィンランドに住む青年が失恋を気に生活を一新するためにあるルールで実験します。部屋にモノがゼロの状態からスタートし、1日1つまでなら自分の荷物を取ってきてよいというルールです。この青年の1年間生活を続ける姿を追ったドキュメンタリーが『365日のシンプルライフ』です。
主人公ははじめ、裸からのスタートのため、洋服を取りにいきます。次にブランケット、マットレス、キッチン用品など生活に必要なものを集めていきます。その過程は下記サイトにまとまっています。
ただ、60日が経過したあたりで、彼はあることに気がつきます。もう必要なものがないと。そこから主人公はこの1日1つものを取れるというルールに苦しめられていきます。そもそも取るものがなければこの実験は続行できないわけです。悩み続けて彼は鬱のような状態になっていきます。実験を続けるべきか、やめて普通の生活をするべきか。
そんなある日、彼は一人の女性と出会い、サイクリングデートに行くことを約束します。そこで彼は自転車を自身の荷物から取りにいきます。そこから彼は彼女のためにモノを取りにいくようになります。
では、彼がそんな生活を経て、気がついたモノを持つ意味とはなんでしょうか?
本当に必要なモノは?
彼は自分のためにモノを所有するのではなく、人のためにモノを所有していたということに気づかされます。彼は映画の中で、本当に一人で生きていくのに必要なものは60個くらいしかないと結論付けています。ただ、「モノを持たなくてよい」というのではなく、モノはモノ自体に価値があるのではなく、そこに付随するストーリーやモノを介したコミュニケーションに価値があるのです。
『365日のシンプルライフ』のラストシーンは、主人公とその彼女が必要なモノをトランクから選ぶシーンで締めくくられます。GWや大型休みで大量に買い物した人も、その買ったものを使って、誰かに話せるような物語を作ることができれば、それは価値のある買い物だと思います。
あなたのほしい物はなんですか?
東京アンダーグラウンドってどこにあるの?
Have a Nice Day!、通称ハバナイのZeppDivercityでのライブを見てきました、まちだねこです。
このライブはcampfireのクラウドファンディングを活用して、Zeppを貸し切ることで実現したライブです。ハバナイが普段行っているライブハウスは比較的小さいライブハウスやクラブです。だからこそ、Zepp規模で実施した今回の試みは、ハバナイにとって新たな試みだったのです。
そんな今、注目の存在であるハバナイについて、まとめてみました。
Have a Nice Day!とは?
浅見北斗を中心とした東京アンダーグラウンドを代表するバンドである。
ハバナイは、今回のZeppでのライブの前にリキッドルームでのフリーライブを実施しています。その様子は、HMJMによるドキュメンタリー「モッシュピット」として映像化されています。
ただ、そんなフリーライブは素直に成功したわけではありません。リキッドルームのリリースパーティーへと向かう中、メンバーの脱退や衝突の日々が続きます。浅見の苦悩は"blood on the mosh pit"という曲のMVに現れています。このMVの中で浅見はこう語りかけています。
不安、苦しみ、憎しみから生まれた音楽で
人は踊り、歌い、ときに感動で涙する
ハバナイの音楽には単なるニューウェーブサウンドではなく、負のエネルギーをプラスに変えて、みんなが楽しめる空間を作る力があります。それこそが彼らの音楽の魅力であり、今回のZeppでのフリーライブが成功した理由なのだと思います。
アンダーグラウンドは東京だけのものじゃない
今回のフリーライブにもゲスト出演した大森靖子は自身の楽曲"hayatochiri"において、次のように歌っています。
ねぇ知ってた?サブカルにすらなれない歌があるんだよ
ねぇ知ってた?アンダーグラウンドは東京にしかないんだよ
東京アンダーグラウンドとは、東京の表舞台に登れないキワモノがそんな状態を誇らしく自分たちを自称して言うことが多い。アンダーグラウンドの枕詞に"東京"なんてついているから少しだけおしゃれな最先端な気がするだけで、結局は「地下」です。
ただ、東京アンダーグラウンドは表世界に居場所を感じられない夜の世界の住人に居場所を与えてくれてます。しかもそれは東京に住む人だけのものではなくて、夜の世界の住人みんなのものです。そんな東京アンダーグラウンドが、東京の地下を走るメトロのようにインターネットを使って拡大すれば、もっとすごいことが起きるのではないでしょうか。今回のフリーライブを見てそんな期待を抱きました。
有意義な会議をするためのコツとは?
毎日仕事とNetflixを行ったり来たりしているまちだねこです。
仕事をしていると本当に不毛な会議に出会います。時間だけがすぎていき、2時間前の状況と全く変わらないことも多々あります。そんなときこの2時間で映画を見たらどれだけ有意義か、そんなことを考えます。
今回は、2時間ほぼ同じ会議のシーンからなる映画『十二人の怒れる男』を題材に有意義な会議をするコツについて考えていきます。
『十二人の怒れる男』あらすじ
『十二人の怒れる男』は元祖低予算映画です。映画の中でのシーンは、ほぼ会議室でしかありません。そこでタイトル通り十二人の男がある裁判について裁判員たちが有罪か無罪かを決める会議をしているだけです。ただこの映画は名作として語り継がれています。その魅力はなんでしょうか?
この映画はすごくシンプルな映画です。だけれども面白い。ここにこそ、会議を面白くするコツが隠されているのではないでしょうか?
有意義な会議をするコツ
この映画を見ると分かる一番の魅力は、人間描写やセリフが優れている、つまり脚本が優れているという点です。また、1つの方向に紆余曲折しながら向かう脚本に魅力があります。つまり、脚本さえ面白ければ、どんなにお金がなくても面白くできるということを証明した映画なのです。
では、もう少しブレイクダウンしていきましょう。この映画は、話のボールを持つ人が次々に変わります。誰かがTEDのようにろくろを回しながらしゃべるわけではありません。だからこそ、ストーリーがまるで爆弾ゲームのようにどうなるか目が話せなくなり、観客を楽しませているのです。
これを現実の会議に置き換えてみると、2つのポイントになります。
1つ目は、参加者全員が主人公になるくらい積極的に話を進めていくです。もう一つは予め誰か1人が会議の筋書きを描いて、そこに話を着地させるようにストーリーテリングすることです。
後者はとても重要でこれがないと脚本のない映画になってしまいつまらない会議になってしまいます。当然のようにつまらない会議に参加しているなら、脚本を書いてそのとおりに進めるよう努力してみましょう。
そうすれば、脚本通りではないことが起こったとしても、それを上手く活かして活発な有意義な会議ができるはずです。
ちなみに、余談ですが、この映画の中で最初に判決に異議をとなえるのは建築家の男性です。なぜ建築家なのでしょうか?これは、おそらく建築家という職業が捉えどころのないものであるからではないでしょうか?だからこそ、真実を常に追い求めるという人間離れした役柄を演じさせても違和感が少なくなるのです。
恋の始まりから終わりまでを描いた映画ありませんか?
春は出会いと別れの季節だと思っています、まちだねこです。
突然ですが、恋人になると必ず終わりが訪れます。それがハッピーエンドであれば結婚してパートナーになるし、バッドエンドであれば永遠に二人が会うことはありません。大抵の場合、失恋とは後者の場合を指します。別れたらその間に恋人と一緒にいた時間はムダだったのでしょうか?恋の始め方と終わり方を描かせたら最強のマークウェブ監督の映画2作品を元に考えていきます。
『500日のサマー』
『(500)日のサマー』は、さえない主人公トムがサマーという名前の女性に恋をする話です。この映画のタイトルの500日とは、トムがサマーに恋をしてから別れるまでの日数を表しています。トムは、同じ会社のサマーと仲良くなり、「友達以上恋人未満」の関係になります。二人はその関係のまま近づいたり、離れたりしながら、お互いの人間関係が揺れ動きます。
この映画で主人公の恋が当初願っていた形で叶うことはありません。ただ、この映画を見終わった後、多くの人が最初に出てくる主人公と映画の最後のシーンでの主人公が全く違って見えることに気が付きます。見た目や性格は大幅に変化はしていないのに、です。
その変化とは、トーマスがサマーとの恋愛後、垢抜けた姿になることです。たかだか、1年半経過しただけで、明らかに垢抜けた感じになっています。つまり、この映画は、恋愛模様ではなく、恋愛を通して人がどのように成長するかを描いた映画なのです。
『さよなら、僕のマンハッタン』
『さよなら、僕のマンハッタン』もさえない主人公が恋により成長する話です。主人公のトーマスは仲の良い女友達ミミへの好意を伝えられずに曖昧な関係でいます。このトーマスがミミに好意を伝えられずに曖昧な関係を持っているというシチュエーションは、500日のサマーと全く同じです。ただ、500日のサマーと異なる点は、そこからトーマスは父親の不倫を目撃し、父親の不倫相手と交際するという方向転換です。
つまり、この映画は、父親との確執というよりは刺激的な恋愛をすると人はどう成長すか?というテーマを描いています。
そして、トーマスは父親の不倫相手との交際を経て、垢抜けていくことで、ついには映画の始まりの時点では好きだったミミから告白されるようになります。ただその頃、トーマスはミミよりも父親の不倫相手の方を好きになっているというすれ違いになります。そして、不倫相手とも別れます。ただ、彼は明らかに映画の初めと終わりで成長して大人になっています。これは恋による成長です。
「失恋」と「恋の終わり」の違い
恋愛によって主人公の成長を描いた映画2作を紹介しました。この2作は成長をテーマに置いていて、恋愛というのは人生の1つのパーツにすぎないということを描いています。つまり、自身を成長させえるものが恋愛のみという恋愛至上主義でもなく、仕事のみでもないということです。
また、主人公が自分とは釣り合わないような美人と付き合おうと奮闘して成長していくという点も2作品で共通しています。彼らは背伸びをすることで自分が成長することに結びついています。別に、クラスのマドンナを狙うのが良い。ということではありません。結局、自分を成長させてくれるようなものであれば、それはどんな結末だろうと良い恋愛で良い経験だったのではないかと思います。
この2作品で描かれているのの、恋が失くなるような刹那的な「失恋」ではなく、終わるけどゆるやかに自分の糧として残っていくような「恋の終わり」ではないかと思います。
若者が都会で暮らすことの孤独とは?
最近東京で暮らしはじめた、まちだねこです。
都会で暮らすこと。都会はみんなサバサバして生きてる個々がお互いに無関心で生活するイメージがあります。今回は都会で生活することについて、魚喃キリコ漫画原作の『ストロベリーショートケイクス』と『南瓜とマヨネーズ』から考えてみます。
ストロベリーショートケイクス
『ストロベリーショートケイクス』は、フリーターの里子、デリヘル嬢の秋代、OLのちひろ、イラストレーターの塔子の4人の女性の日常をつづる話です。
彼女らの共通点は、悩みを素直に相談できる人がいないこと。ただ、彼女らも悩みを抱えきれずに弱みを見せるように誰かにすがりつきます。それが友達だったり、恋人だったりだったりします。
けれども、どうしても全てを委ねるのではなく、甘えた先を考えて、どうしたら相手に良く思われるかを計算してしまうズルさがあります。
たぶん都会で暮らすということはこの映画で描かれるような、誰にもなんとなく気を許せないで、もしくは部分的にしか気持ちを許せずに生きていくことなのではないでしょうか?
南瓜とマヨネーズ
『南瓜とマヨネーズ』も都会で生きる女性が主人公の話です。主人公のツチダはシンガーソングライターの彼氏せいいちをヒモとして養っています。ツチダはそんなせいいちを支えるために内緒で水商売を始めます。そのことを知った土田は音楽をやめ、働き始めます。ただそんな時、ツチダは元彼のハギオと偶然再会する。
この映画のテーマは、ちょっとした思いやりはズレを生むということです。ただ、そのズレによって生活が崩壊するのではなく、生活はあまりにもゆるやかに続いてきます。
都会での暮らしを始めたら、どんな出来事が置きたとしてもゆるやかに続いていきます。そして、人が多いからこそ、偶然にいろんなできごとが起きます。ただ、それは生活の一部で、しかも都会で暮らす多くの人は無関係に振る舞ってくれます。しかも実際に無関係です。そんな誰も自分に関心がない状況はある意味で生きやすいのではないのでしょうか?
都会で暮らす孤独と希望
2本の映画を元に考えてきました。『ストロベリーショートケイクス』は都会で暮らすことの孤独を、『南瓜とマヨネーズ』は都会で暮らすことの希望を描いています。
都会で暮らすことは、都会に住む多くの人と自分が無関係であることを再認識して孤独を感じることです。ただ、無関係だからこそ、なにやっても許されるような気持ちに成ります。そんな相反する気持ちを抱きながら暮らすことが、都会での暮らしだと思います。